木山事務所公演以来、15年ぶりの再演である。が、再演と言ってもまったく同じものではなく、今回の上演にあたって作者福田善之によって改稿されている。
1996年の公演パンフレットを引き出して見ると、サブタイトルは「シェイクスピア作、小田島雄志訳の悲劇による幻想」と題されているが、今回はそれが「陽炎篇」となっている。
96年の公演は観ているもののまったく記憶に残っていないので、パンフレットを頼りにしての比較になるが、ハムレット役の設定が、復員兵から少年航空兵を夢見た少年になっているのがまず変わっている。
舞台は、空襲で逃げるハムレットの妹(劇中劇ではホレイショ―を演じる)が、兄ハムレットとはぐれるところから始まる。
行方不明であった兄ハムレットが、二年後に少年航空兵の服を着て、父が座長であった劇団に突然戻ってくる。
占領軍の政策で演目に制限があり、劇団はシェイクスピアの『ハムレット』を上演しようと稽古に励んでいる。
劇団員はほとんど全員が親戚という関係であり、座長はハムレットの父であったが空襲で焼け死に、今ではその弟が兄嫁の夫となって座長を務めている。この義父と母が、クローディアスとガートルード役を演じる。
ポローニアス、レアティーズ、オフィーリアも、叔父、従兄弟、従妹関係にあり、ホレイショー役はハムレットの腹違いの妹である。
舞台の稽古は、クローディアスとガートルードの結婚の謁見の場から始まり、時代は戦後からどんどん進んでいき、それに合わせて稽古の場面も進行していく。
3人のコーラスの歌と、ホリゾントに映し出される映像によって時代の移り変わりが示される。
戦後の焼け跡の時代から、高度成長までの社会変化と思想の変化が綾織となって舞台化される。
ハムレットをなぜ、復員兵から少年航空兵を夢見た少年に変えたのか?!
そこにこの劇の一つの鍵があるような気がする。
少年(ハムレット)は少年航空兵になることが夢であったが、年齢の関係でなれなかった。それが空襲で行方不明の後、航空兵の服装で突然戻ってくる。その経緯の一端は、この劇の終わりの方で明らかにされる。
ハムレットの精神科の主治医はかつて少年航空兵であった。その彼が着ていた航空兵服をハムレットがナイフで脅して奪い取ったのである。
この舞台におけるハムレットの狂気は、少年航空兵になれなかった少年の見果てぬ夢の中にありそうだ。
そして、母と妹との関係。
母との関係は『ハムレット』と同様に、父とその弟との再婚に対する嫌悪、その嫌悪は潔癖感からというより、母への恋愛感情に似た愛からくるものであった。妹は腹違いで、兄ハムレットを恋愛感情で慕っている。
ハムレットは絶えず問い続ける、「あの空は青いか」と。
ハムレットにあるのは、戦後の焼け跡に広がった青い空のイメージであろう。「その」青い空が見えるか、と本当は尋ねているのだと思う。そしてそれを理解しているのは妹だけであり、彼女だけが、「ええ、青いわ」と答えるのだった。
時代はどんどん変化し、思想も変化する。ハムレットは自問する、「このままでいいのか」と。いや、いいはずはない、というのがハムレットの悩みであり、苦しみである。
サルトルの実存主義、存在と非在の問題が浮上する。
シェイクスピアの『ハムレット』と異なり、この劇のハムレットの父は空襲で逃げおおせず、焼け死ぬ。そのとき父の弟は、兄ではなく彼の妻の方を助ける道を選び、結果的に兄を見殺しにする。
舞台稽古では、レアティーズとの剣の試合の前に、クローディアスはハムレットに兄を見殺しにした自分に対する気持ちを確認するが、ハムレットは憎しみの気持は否定し、クローディアスもそこで安心する。
この劇を観ていて感じたことは、大げさな表現に聞こえるかも知れないが、戦後思想史のようなイメージに思えるのは、コーラスの歌と、時代の進行とともに写し出される映像のせいだけでもないだろう。
時代を思想化するという思想性において、同じ作者の『真田風雲録』を思い出し、似通っているものを感じた。
15年前のパンフレットでキャストを確認すると、ハムレットとレアティーズの役のみが同じ俳優によって演じられており、林次樹と平田広明の二人である。その他は、クローディアスに菊池章友、ガートルードに木村万里、妹ホレイショーに劇団昴の染谷麻衣、従妹オフィーリアに福島梓、3人のコーラスは橋本千佳子、宮内彩地、辻奈緒子が演じた。
翻訳/福田恆存、演出/浅利慶太、装置/金森馨・土屋茂昭
6月8日(水)18時30分開演、浜松町・自由劇場、チケット:(S席)7000円、座席:1階7列11番
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