― 衣装の色分けでされるキリスト教世界とユダヤ教世界 ―
シェイクスピアは台詞を聞く劇であったということを改めて思い知り、それを堪能させてくれるものであった。台詞そのものをこれほど心地よく聞くことのできるシェイクスピア劇に出会ったことは稀だと思う。聞き惚れる、とはこういうことかと思った。
舞台は中央奥に、オベリスクを平面化して展開した抽象画のような装置で、上部には円形の輪が光輪のようにして上から吊るされている。 この円形の輪は実はカーテンレールの役割をしていてカーテンで仕切ることによって円滑な場面転換を果たす。
客電の落ちる前に舞台下手と上手から、淡いクリーム色のスーツを着たアントーニオ、サリーリオ、サレーニオがゆっくりと登場してくる。舞台中央の前面に進んできたアントーニオを演じる中井出健が、バッサーニオの箱選びの時に歌われる「浮気心どこに住む」の歌を、最初はゆるやかに、そしてだんだん朗々と、大きく張りのある声量で歌いあげ、しみじみと聞き入らせる。
この「浮気心の歌」はバッサーニオの箱選びの時にも、彼が客席の後方で歌って二重の効果を感じさせる。
アントーニオの憂鬱の告白、それに突っ込みを入れるサリーリオとサレーニオとのやりとりの台詞に、音楽に聞き惚れるように引き込まれ、初手から思わずぞくぞくとさせられた。
全体の台詞力もさることながら、人種間の図式的な演出にも見るべきものがあった。
キリスト教徒の世界とユダヤ人の世界については服装の色で明確に分けられている。
キリスト教徒の人物はすべて白や白っぽいクリーム色の衣裳で、ユダヤ教徒は黒い服装で統一されている。
ジェシカもロレンゾーと駆け落ちするまではユダヤ教徒としての黒い服装だが、駆け落ちする時には少年の姿で白い衣裳を着てキリスト教徒に改宗したことが示されている。
モロッコの大公、アラゴンの大公もそれぞれの民族的な衣裳で差異化している。
彼らに対するポーシャの人種的偏見の台詞や、人物造形で民族的な偏見を特徴づけていて、それがことさらに強調されて感じられたのも特徴であった。特にアラゴンの大公は傴僂で醜悪な老人として極端にデフォルメ化されて描かれている。
シャイロックを演じるのは劇団の代表であり、演出も兼ねている吉田鋼太郎。
彼の圧倒的な存在感に劣らず、アントーニオとバッサーニオの関係、バッサーニオとグラシアーノの存在感が大きく感じられた。それらを演じる中井出健、谷田歩、横田栄司の台詞力が大いにそれに寄与していることも間違いないし、それが彼らの演技力と相まって聞いていて楽しく心に強く響くのだった。
シャイロックの演出はシェイクスピア劇の上演史において解釈の変遷に興味深いものがあるのだが、そのシャイロックの人物造形に過剰な解釈を感じさせないところが却って新鮮な気がした。
つまり極端に悲劇的な人物とか喜劇的人物として描くのではなく、一人の人間、一人のユダヤ人、一人のユダヤ教徒、一人の高利貸しとして、アントーニオに対する鏡、キリスト教徒に対する鏡として、彼らの偏見を写し出す存在として描かれているように見えた。
演出上に特別な細工はしていないので最後の指輪騒動でこの劇の喜劇性が大いに感じられ、それを楽しむことができた。
指輪騒動も治まってそれぞれが新床へ去って行き、あとにはアントーニオがひとり取り残される場面で、冒頭のアントーニオの憂鬱の原因が見えた気がした。
そしてそこで終わりかと思うと、最後に印象的な場面を作っている。舞台上手から、白い衣裳に変わったシャイロックが静かに登場し、ふたりは上手と下手に分かれたまま、冷たい眼でじっと見つめ合う。
その白い服装でシャイロックがキリスト教徒に改宗したことを明示しているのだった。
余韻の残る秀逸な演出だと思った。
演出の中で一つ分からなかったのが、バッサーニオが三千ダカットの借金を頼みに行ったとき、シャイロックが黒い蝙蝠傘をさして登場したことだった。あれが何を表象しているのか分からなかった。
私が観た当日のキャスティングは、かつてマクベス夫人を演じた林蘭が久方ぶりにヒロインのポーシャを演じ、ネリッサは坂田周子、ジェシカを金子久美子が演じた。女優陣はA班、B班のダブルキャストで、A班のネリッサは日替わりで交代。比較の上でもB班のキャストでの上演も是非見たいと思わせるだけのものがあった。
他にサリーリオを杉本政志、老ゴボーを星和利、ヴェニスの公爵に北島善紀、ラーンスロット(日替わり)に長谷川志などが演じた。
上演時間は途中10分間の休憩を挟んで2時間40分。
私の観劇評価 ★★★★★
訳/小田島雄志、演出/吉田鋼太郎
4月9日(土)14時開演、恵比寿のエコー劇場、チケット:5000円、座席:C列4番
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