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  椿版 『天保十二年のシェイクスピア』      No. 2010-015
 

パワフルでエネルギュッシュ、猥雑さに溢れ、自分も芝居の中にいるような錯覚は野外劇ならではの楽しみ。

舞台平土間と観客席の仕切りもなく、最前列の指定席に座っていると、時に役者が目前までやってくることもある。

その臨場感が興奮を誘う。

庶民的猥雑さで舞台を始めるのは蜷川幸雄が得意とするところだが、椿組のそれと比較すると、計算された作られた無秩序という趣があり、枠の中に収まっているといえる。

椿組のそれは、枠からはみ出ていて計算できない猥雑さのエネルギーがあって、芝居がかつての田舎の祭りの行事であり、庶民の解放の場であったという芝居の原点を感じさせる。

祭りの気分の高揚感がこの芝居には溢れていた。

幕が開くと、抱え百姓に扮した総勢五十人にも及ぶ役者一同が平土間に正座して、次々に口上を述べていく。

口上が終わると一同立ち上がって、「もしも―シェイクスピアがいなかったら」のコーラスが始まる。

もうそこまでで興奮のるつぼの中に放り込まれたような気分になる。

舞台の展開はすばやく、傍白(わきぜりふ)によって、場面が下総国清滝村の宿場であることが紹介される。

急ごしらえの板場の舞台中央に、ブリテンを表象する鰤が、頭を上にして傘立てに立てられたように身を半分出して置かれている。

鰤の十兵衛(ブリと十を重ねてブリテンをもじる)が三人の娘に身上を譲る場面となり、これはシェイクスピアの『リア王』に重なる。

井上ひさしの『天保十二年のシェイクスピア』は、シェイクスピアの全作品がてんこ盛りされた作品だが、骨格としてはこの『リア王』の主要な登場人物が、『ハムレット』、『マクベス』、『オセロー』の四大悲劇の登場人物へと変容し、物語も自然に移行し、展開していく。

そのつなぎ役として主骨になるのがリチャード三世こと、佐渡の三世次。

シェイクスピアの作品を読んだことのない者でも、表の内容だけでも十分に面白い作品だが、シェイクスピアの作品と重ねれば、その換骨奪胎の巧みの面白さは二重三重の面白さとなって、本家のシェイクスピアも舌を巻くほどだろう。

最後の場面は圧巻であった。

代官になった佐渡の三世次の横暴に耐えかねた抱え百姓が一斉蜂起して彼を襲い、大立回りが繰り広げられる。

舞台後方を組んでいる木材が崩れ落ち、舞台は神社の野外からも見える状態となる。

舞台を見ている観客も、外を歩いている歩行者からは見られる立場になる。

逃げ場を失った三世次は梯子の上に登って、天上を指し、「馬だ!天馬だ!」と叫んで絶命する。

井上ひさしの原作をそのまま演じれば四、五時間は優にかかるのだろうが、途中10分の休憩を入れて約三時間に集約されての上演時間。

役者陣もそれぞれに個性味溢れている。

隊長役の椿組座長、外波山文明は人柄を感じさせる味のある演技。

佐渡の三世次を演じた山本亨には見ごたえのある存在感を感じた。

きじるしの王次(ハムレット)を演じた丸山厚人は、(自分はまったく知らないが)、人気のある役者なのか、登場してきたときには拍手でわいていた。

その意外性に驚いたのは、鰤の十兵衛の次女お里(リーガン→マクベス夫人→デスデモーナと変じる)を演じた加藤健一事務所出身の加藤忍。

興奮の余韻を抱えて花園神社を後にした。

<私の観劇評>★★★★★(星五つは、井上ひさしへのオマージュもこめて)

 

(作/井上ひさし、構成・演出/西沢栄治、7月18日(日)夜、新宿・花園神社野外劇場にて観劇)

 

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