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    BeSeTo演劇祭・劇団美醜公演  『リア王』      No. 2010-014
 

少し唐風に感じる屏風が、舞台横幅いっぱいに広がっている。

屏風の端、上手側はハングル文字でリア王と書かれており、下手端は劇団ミチュウと書かれている。

開演の合図で、その屏風にスポットライトが上手から下手へ、下手から上手へと移動していく。

屏風はジグザグに折れているので、丸い光のスポットがいびつに歪んで見えるが、ときにハート型にも見える。

スポットライトが移動して中央部に戻ってきて、静止する。

屏風の内側から縦笛の音が聞こえてくる。

屏風の中央が、左右に半間ほどの幅に開かれる。

そこに道化が、箱に座って縦笛を吹いている。

道化は小柄な女優(李康美)が演じている。

女優が演じる道化では、平幹二朗の<幹の会>で中原ひとみが演じた道化を思い出した。

屏風が左右に全開されると、道化のはるか後方に、紗幕のような簾を通して、赤い衣装を身に付けたリア王の後ろ姿が見える。

国王謁見の合図の音が鳴り、リア王の国譲りの場面が始まる。

道化は、そのまま舞台中央の前面に残っていて、座っていた箱の陰から事の一部始終を見つめる。

ケントとグロスターの会話の部分は省略されている。

全体で2時間20分という上演時間(休憩なし)のため、このようにかなり省略の場面があるが、登場人物の登場退場が小気味良いテンポで展開していく。

舞台四方のうち、ホリゾントを含めた三方が簾状の幕で囲われている。

時にホリゾントの方は、簾が巻き上げられ、背景の風景をなす。

出番を待つ登場人物は、側面の簾の下に控え、出番が来ると登場してくる。

搬送上の問題もあって、新国立劇場での上演に当たっては舞台装置の重要な部分を省かなければならなかったということであるが、本来の舞台装置がどのようなものであったのか、興味深く感じさせる舞台装置である。

この簾は単に仕切りとしての覆いであるだけでなく、嵐の場面では雷雨の音響に合わせて大きく揺さぶられ、嵐の模様を可視化させる効果を担う。

このように、舞台装置の唐(韓)風にして和風の趣に親近感をまず感じた。

次に気付いた原作(原文)との違いについて。

まず、リア王が三人の娘たちに自分に対する愛情の大きさ、深さを尋ねる場面で、コーデリアの独白の台詞がなく、リアの問いに対して、ただ「オプソヨ」(ありません)と答えるだけである。

このコーデリアの独白、「コーデリアは何と言おう」という台詞のあるなしで、コーデリアの胸に秘めた思いというものが強く観客に打ち出されると思うのだが、それがないことで、「オプソヨ」という一言が場合によってはよそよそしく響いて聞こえる。反面、それが却ってリアの怒りを誘うのに効果的な面がある。

グロスターの死は原作では舞台上ではなくエドガーの台詞を通して語られるだけだが、ここでは彼はゴネリルの執事オズワルドに襲われ傷を負い、エドガーがオズワルドを殺した後グロスターに自分が息子のエドガーであることを聞かされ、歓喜の心で死んでいく。

絞殺されたコーデリアをリアは抱いて登場するのではなく、首をうなだれたコーデリアを人形のように自分の前に立たせて、それを推し進めるようにして、舞台中央奥から登場してくる。

その時、字幕の翻訳にどのようにあったかは気付かなかったのだが、原文での痛切な響きを持つ、

‘Howl, howl, how, howl!’

が、韓国語での台詞になかったように感じた。

リアの悲痛を感じさせる言葉、咆哮が聞き取れなかった、と言い換えてもよい。

リアがコーデリアを腕に抱いて登場しなかったのは、演出上の目論見なのか、コーデリアを演じる女優が細身ながらも大柄なので、リアが腕に抱くには手に余っての演出なのかは不明だが、マネキン人形を運ぶような所作も面白いと感じた。

コーデリアに近づけた羽根が動いたことで彼女がまだ生きていると思う場面の所作、台詞もなく、この感動の場面の細やかさという点で少しの物足りなさがあった。

反面、ケントの最後の台詞で、「私もすぐに旅に出なければならない」という意味深長な台詞を、この舞台では具体的に表現し、自死を象徴しての死を舞台上で表象したのも特徴であった。

オールバニーの台詞に続いて、最後を締めくくるエドガーの台詞は、エドガーが観客席の通路まで出て言って語る。その台詞は、字幕を見る限り原文と多少異なるように感じるものであったが、そこにこの舞台のすべてが語られているようであり、ここに記録しておきたいのだが、残念ながらメモを取る余裕もなかった。

そしてすべてが終わった後、道化が下手から縦笛を吹きながら登場する。

開幕とは逆の手順で、上手、下手の両側から開演時の屏風が中央部に向かって広げられていく。

最後は、道化の身体の幅ほどに残された屏風の隙間に身を入れ、中へと引っ込んで、自分で屏風を完全に締め切る。

台詞や所作での細やかさという点での物足りなさはあったものの、骨格がしっかりしていて、心にたぎるような深い感動を残す舞台であった。

リア王を演じた鄭泰和の容貌、顔つきは、同じく新国立劇場でリアを演じた山崎努と俳優座の中野誠也を足して二で割ったような感じがし、演技そのものは蜷川幸雄演出のリアを演じたナイジェル・ホーソンを思わせる内面的なリアであった、というのが個人的な感想である。

韓国のシェイクスピア劇を観るのは、『ロミオとジュリエット』と、この『リア王』で2回目だが、そのどちらにも感じたのが、「恨(ハン)」の世界であった。

シェイクスピアの悲劇と、韓国の「恨」の文化の近似性という点でも興味深いものを感じた。

 

<私の観劇評>★★★★(感動と満足感を味わった) 
座席は8列39番で、実質的には前から3列目で、中央真正面というめぐまれた席であった。
劇団美醜(ミチュウ)は、韓国の演出家孫振策(ソン・ジンチェク)によって1986年に設立された劇団。

 

(演出/イ・ビョンフン、上演/劇団ミチュウ、7月11日(日)昼、新国立劇場・中劇場にて観劇)

 

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