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  ソネット, 同時代人の『黒い貴婦人』を観る      No. 2010-013
 

コンテンポラリー・ダンスの「コンテンポラリー」をあえて「同時代人の」と訳出してみた。

シェイクスピアをコンテンポラリー(同時代人)として論じたのは、かの有名なヤン・コットであるが、それを、ソネットで、同時代人(コンテンポラリー・ダンス)として演じるという企画の発想が刺激的で、何よりも我々と同時代的に感じさせるものであった。

しかも『ダーク・レディ』として知られるシェイクスピアのソネットの第二部のマクラの部分である127番と130番を、詩の朗読とダンスと歌のコラージュで表出するという斬新な試みが素敵である。

実験的と言えば実験的であるが、観ていて、むしろ自然に受け入れられるものであった。

舞台は開演の合図も何もなく、静かに、いきなり暗転する。

舞台が溶明すると、舞台中央奥のパイプ椅子に座ったつかさまりが、シェイクスピアのソネット127番を、小田島雄志訳で、抑揚もなく、無表情な語り口で、音節を一節一節区切って、平板に、のっぺりと朗読を続ける。

そののっぺりとした朗読に呼応して、簡素な黒い衣装を付けたダンサー二人(山口隼人、中澤利彦)が、緩慢な動きで踊る。

退屈なまでに意識的な能面のような語りが続き、しばらくして舞台下手、袖口の方から壮年のシェイクスピアに扮した瀬沼達也が登場し、メリハリを利かせた英語でソネットを演じ始める。

演じる、と書いたが実際にはソネットを朗読するだけであるが、その朗読の声からはソネットが演じられているように感じられる。なによりも感嘆したのは、瀬沼達也が、そこにシェイクスピアが実際に登場したかのような雰囲気をもっていたことである。詩の朗読も、その声に魅せられ、聞き入らせる力を感じた。

コンテンポラリー・ダンサーの踊りも、瀬沼達也の緩急のある朗読に呼応するかのように、動きが一転し、俊敏にして鋭角的に変化する。

そして、彼の英語の朗読に化学反応するかのようにして、つかさまりの朗読の調子の趣も変化し、平面的な語りから、詩の朗読としての抑揚が加わってくる。

美と醜のコントラストは「白」と「黒」であり、昔の人は黒が美しいと思わなかったのであるが、当節では黒が美となり、白が醜と化している。

かつての美=白を演じるのは、この企画の主催者である小野明子。

美の象徴でもあった「白」の衣裳の小野明子は、懸命にパウダーで白粉を塗りまくる。人工の美の醜。

自然の美に手を加えれば加えるほど、美は醜くなっていく。実際に小野明子の表情が醜悪に変化していく様に驚かされる。小野明子の容貌がそのように変容していくのに合わせて、足が絡められたような姿態で足首を窮屈に交差させ、彼女の動きに束縛を加える。

一方、美の名前を勝ち得た「黒」は、「鴉」を表象するかのような、黒い衣裳に黒いサングラスをかけた遠山尚江が演じ、「白色は面白みに欠ける」と軽侮し、動物的な俊敏な所作で踊る。

後半部の130番のソネットの朗読で興味を引くのは、つかさまりが普通の朗読から一転させ、狂言風の言い回しで演じる朗読である。

彼女は東京シェイクスピア・カンパニーでの演技でも七色の声を演じるが、この狂言回しの朗読も、彼女が本格的に狂言を学んでいるだけに堂に入っており、なかなか面白い試みであると思った。同時に、130番のソネットそのものがアイロニーに満ちた諧謔的なものであるだけに、表現法としては奇抜な着想であると感心した。

Neo Classica ASCendantの歌が、ダンスと詩の間にコラージュされることで、全体に変化と統一をもたせている。

 

(主宰/Akiko Dance Project、7月8日(木)夜、両国、シアターXカイにて、レイト公演観劇)

 

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