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  楠美津香ひとりシェイクスピア 超訳『ヘンリー八世』 No. 2010-002
 

いろいろな意味で、というべきかすべての意味でというべきか、『ヘンリー八世』を見ることができるといのは、おそらくシェイクスピア全作品の上演を目指す企画でない限り、めったに見られるものではないだろう。

自分の手元にあるパンフレット、チラシの資料からみて、『ヘンリー八世』の上演はシェイクスピア・シアターが1993年、当時のパナソニック・グローブ座で公演して以来、ないのではなかろうか。

久しぶりに取り出してみたシェイクスピア・シアターのその時のプログラムを見ると(当時、シェイクスピア・シアターは含蓄のあるプログラムを出していたのです)、懐かしい面々が顔をそろえていて、ヘンリー八世を演じた吉田鋼太郎なども、ずいぶん若々しい顔をしていたのに驚くほどです。妃のキャサリンは看板女優の吉沢希梨でした。

(そのときシェイクスピア・シアターが同時上演したのが『ジョン王』でしたが、これも日本ではまずほとんど見ることのないシェイクスピア作品です。)

そういう珍しい作品であるということで、事前に小田島雄志訳で再読してみましたが、なかなか面白い。

ところが、です。演ずる(?)楠美津香さんにいわせると、シェイクスピアの作品の中でこれほど面白くない作品はない、どうやって料理したらいいものかとずいぶん苦労されたらしい。

そのギャップが面白いとまず思いました。

目で読む場合と、肉体を通して台詞を言うのとではその言葉の感覚が時にずいぶん異なることがあるというのは、演劇の現場を大事にして翻訳されている松岡和子さんの体験談を通して伺っているだけに、非常に関心がありました。

シェイクスピアの面白さを楠さんはシェイクスピアの「格調」さえ無視すれば、次の3つの要素に集約されると簡潔に定義しています。

  • 大衆演劇である。
  • ギャグ満載。
  • 下ネタ至上主義。

ところが、『ヘンリー八世』にはこの3つのどれもがないといいます。

確かにこの点においては、シェイクスピア自身(あるいは共作者のフレッチャーか?)、プロローグで、「これからごらんに入れますは 笑いを招くものでなく、高尚にして厳粛な 涙を誘う芸術です」と異例な(?)口上を述べます。

このあたりの説明から掘り起こしていって、この作品の生真面目さは、悪人がいない、どんな悪人に見えていた人物も死ぬ時には善人の姿で描かれているという、興味のある指摘をします。

またシェイクスピアの一座がジェイムズ国王おかかえの一座ということで、時の権力に従って迎合して(?)作り上げたので豪華絢爛ではあっても、中身に乏しい、というのが面白くない理由だと面白おかしく推定します。

確かにこの作品は、登場人物のいいとこ取りをしていて、そういう意味では人物造形の深みに欠ける、と言えるかもしれません。

この劇での一番の憎まれ役、ウルジー枢機卿にしても、死ぬ前には善人たる側面がクロムウェルから強調されます。同じ憎まれ役にしても、この面をとらえればリチャード三世などとはずいぶん異なっています。

面白くない作品と言いながら、結構楽しく、面白く、笑わせる場面を作り上げ、飽きさせない語り口は、このシリーズの一本筋の通った線を感じさせます。

それに、シェイクスピアを(原書で)読もうとする者にとって、机上の上ではない、舞台のシェイクスピアを楽しむ方向を示唆してくれる貴重なものでもあります。

本作品の上演を以て、楠さんのシェイクスピア全作品上演も、残すところ3つとなったそうです。(あとみっつか?)

 

(参考訳/小田島雄志、坪内逍遥、作・出演/楠美津香、2月13日(土)昼、北千住、労音東部センター・地下ホールにて観劇)

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