今回の関東学院大学シェイクスピア劇公演については、複雑な思いで見ることになった。
一つは、36年間にわたって関東学院大学のシェイクスピア劇公演の指導と演出に携わってこられた瀬沼達也氏の最後の演出になるということ、まずこれが一番の感慨深い思いであった。
いま一つは、氏がこの公演が最後になるということで、この一年近く氏からも直接伺っていた、これまでシェイクスピアに描いていた<思い>が今回の演出に表現されるという、いうなれば答案の回答を先に貰って試験を受けるような、そんな観劇の立場に立ったことである。
その氏の思いについては、公演プログラム、<『十二夜』に秘めたシェイクスピアの心情に迫る〜第58回公演ポスターの原画に込めた思い〜>に詳しく述べられているのでここでは割愛するが、私にとって、「私はこのように見ますよ、あなたはいかがですか?」と公案を与えられたような気持でこの劇(演出)を見る<構え>が自ずと生じたことだった。
演劇を見る楽しみの中に、自分で<発見>する悦びもあるのだが、ここではその楽しみが一つ、悪く言えば、消されてしまう。勘違いされると困るのだが、私はそのことを非難しているのではなく、その先にある楽しみを述べたいと思っているのだ。
手品でいえば、種明かしを先に教えてもらって、なおかつその手品を楽しむということがいえるだろう。
トリックの種は分かっているのに、その妙技に感心させられる、そのようなものを今回感じさせられた。
氏の思いが伝わったとすれば、それは、それを体現した俳優(学生)たちを評価すべきだろう。
そして今回、それはその評価に値する見事な体現であったと、私は拍手を惜しまない。
ここで氏の<公演ポスターの原画に秘めた思い>に触れざるを得なくなるのだが、今回の演出では、原作にない、氏の創作の<プロローグ>と<エピローグ>が入る。
プロローグでは、道化フェステが物語の主人公ヴァイオラとセバスチャンがシェイクスピアの双子の子ども、ハムネット(ハムレット)とジュディスであることを紹介し、シェイクスピア自身がフェステを演じるという口上を述べる。
<エピローグ>でフェステは'I lost my Sebastian'という台詞を口にするが、それは11歳で亡くなったシェイクスピアのハムネットであることを直に感じさせるものがあった。
そしてさらには、瀬沼氏が関東学院大学の演出家の立場を去る寂しさが伝わってくるように感じた。
そのことで、その台詞を聞いた時、私はふと思った。
もし許されるなら、瀬沼氏自身がこのフェステを演じたかったのではないかと。
そのように感じさせることができたフェステ役のサノ・タクミ君が、瀬沼氏の<思い>を見事体現したとほめて然るべきだろう。
演出の細やかな点では、フェステの両目のメイクを、一つはヴァイオラのカラーであるピンク、もう一方をセバスチャンのカラーであるグリーンにしていることで、道化のフェステを通してシェイクスピアが二人を見守っているともいえる工夫をしていることである。
今回の瀬沼氏の演出では、<色>に対する配慮もあるので、あながち私の深読みではないと思う。
そのほか印象的な場面としては、セバスチャンとヴァイオラ二人の兄妹が再会し、お互いを確かめ合う場面、二人は舞台中央部で、円を描きながら台詞を語り、最後に円の中心へと歩み寄り、手と手を合わせる。感動的な演出である。
舞台を盛り上げたのは、サー・トービーのフルヤマ・カズキ君、アンドルー・エイギュチークのフジイ・ヒカル君、マライア(ダブルキャストで、私が観劇した昼の部ではアカシ・テルナさんが演じた。個人的な感想を述べれば彼女の英語が一番聞きとり易く、演技もよかったと思う)の三人の演技。間合いと呼吸がぴったり合っていて、生き生きとしていた。
シェイクスピア劇に限ったことではないが、脇役が活躍する舞台は俄然面白い。
マルヴォーリオ役のミツイ・ジュンペイ君もメイク(カール髭)も衣装もよくできていたし、自惚れ屋の傲慢さもよく演じていたと思う。演出によっては主役に匹敵する役であるが、よくその大事な存在感を出せていたと思う。
いつも楽しみなのが、最後にスタッフを含めて全員が舞台にそろって歌を歌い、おしまいに、花びらのように手を振ってお別れするフィナーレ。
このフィナーレを見ると、また来年も、という楽しみな期待でふくらみ、元気をもらえる。
ありがとう、本当に楽しかったです!!
最後に、演出という役は降りても、関東学院大学シェイクスピア劇との完全な縁が切れるわけでもないと思うが、これまでの瀬沼達也氏の学生たちへの指導に、長い間ご苦労さまでしたと、ねぎらいの言葉を捧げたい。
12月12日(土)、神奈川県民共済みらいホール
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