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  新国立劇場 『ヘンリー六世』三部作      No. 2009-033
 

舞台やや下手よりに、国王の座を示す椅子。

椅子は、その形が王座を示すだけで、何の飾りもなく、ジャコメッテイの彫刻を思わせるやせ細った簡素なもの。

その椅子が、鈍色の広大な舞台にぽつねんとあり、開幕の合図のように、音を立ててバタンと倒れる。

そうして、舞台後方、左右から、鈍色のフォード付きマントをはおった人物たちが、静かに三々五々登場してくる。

白い大きな布を掲げてきた四人が、倒れた椅子にその布を覆いかぶせ、そこにたちまち祭壇を作り上げる。

倒れた椅子が、巨星ヘンリー五世の逝去を表象したものであったことが知れる。

ヘンリー五世の叔父ベッドフォード公(金内喜久夫)の壮烈、悲痛な慨嘆、「天は黒雲におおわれ、真昼は夜となるがいい!」の台詞で、9時間にわたる三部作の幕開けとなる。

 

11月7日(土)に第一部と二部、8日(日)に第三部と、二日間にわたってこの三部作を観劇した。

まず強い印象を受けたのが、この椅子であった。

『ヘンリー六世』三部作は、この王座の椅子をめぐっての歴史劇であるだけに、象徴的であり、前篇を通してのシンボルともなってくる。

三部の終わりでは、国王エドワード四世(今井朋彦)が、弟のクラレンス公(前田一世)とグロスター公リチャード(岡本健一)に、赤ん坊の皇太子エドワードに忠誠を誓わせて、前途は明るく平和が訪れたように見えるが、その他の諸卿は、開演の時と同じようにフォード付きマントをはおっているのが暗示的で、象徴的でもある。

だが、終幕にはホリゾントに青空と真っ白な積雲が映し出され、明るい未来を示すかのように見える。

その積雲と青空の中にヘンリー六世がキリストのように立っているのが見え、そして暗転、舞台は終わる。

今回の舞台で非常に重要な位置を占めるのが、島次郎の舞台装置と服部基の照明であるのを感じた。

新国立劇場中劇場の舞台前列9席を取り外し、舞台は前方に向かって大きく広く突き出されている。

舞台前方上手には、本水の入った池をしつらえ、下手前方はトタンや鉄骨の廃材が捨てられたような状態で、アスファルトピッチ(のようなもの)に覆われている。

その舞台下手側半分の先端は、そのアスファルトと廃材を積層したムクの状態をさらけ出している。

舞台下手前方のしわがれた状態は、上から見ると糜爛と腐敗の象徴を感じさせるものがあった。

舞台後方は、砂丘の丘陵をイメージさせるように大きくなだらかに隆起している。

舞台全体の色調は、鈍色。その鉛色が舞台の雰囲気を効果的に重苦しくのしかかってくる。

城門や、足場を組む鋼材で設えた砦は、舞台上方に吊り下げられていて、戦闘場面などで随時降ろされてくる仕掛けとなっている。

第一部と二部では、後方の丘陵を含めて舞台全体が広く使われるが、第三部では後方部はほとんど布で覆われた状態になり、全体の使用が狭まる。

第一部はフランスとの戦闘が主な舞台であるので、この舞台の大きな使用が非常に効果的である。

第二部は、陰謀策略の場面が主調をなしているが、その争いもプランタジネットという大きな幹の中での争いであり、またジャック・ケードの反乱など、争いの範囲も広いので舞台が広く使われる。

ところが第三部に入ると、ヨーク家とランカスター家との王権争いとなり、範囲が卑小になってくることもあって、それを表象するかのように舞台の活動範囲を狭める。

そういう背景を考える時、この舞台装置の使い方が実に象徴的に仕組まれていると思えてくる。

三部を連続して上演するので舞台装置の基調は変わらないが、それを三部の内容に準じてうまく展開させている点に感心した。

戦闘場面では、大きな布がホリゾントの役を負うように使用される。

第一部ではフランス軍側の色として、青色の布が使用され、二部、三部のプランタジネットの争いは、その名が示す通り、白い布と赤い布が使用される。

舞台全体は戦闘場面には非常に有効的な作りとなっているが、王宮や邸内については、装置や小道具でなく、照明によって表象化され、視覚的イメージによって可視化される。

このように舞台装置や照明に、観劇の補助手段としてではなく、舞台の登場人物に変わらぬ重要な働きを感じた。

三部を一挙に観劇することで、三部作の構造を新たな発見をすることにも大きく寄与した。

第一部は『百年戦争』と題され、ヘンリー五世の成し遂げた偉業であるフランス領土復権が失われ、フランスとの百年戦争の終結を迎えるのがバックボーンとなっており、イングランドのトールボット(木場勝己)とフランスのオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク(ソニン)が戦争のシンボル的人物として登場し活躍する。

そして平和をもたらす終結が、アンジュー公レニエ(立川三貴)の娘マーガレット(中嶋朋子)をヘンリー六世(浦井健治)の妃に迎えることが、そのシンボルとなる。

イングランドの災いがその二人の女性であるという二重構造がそこには潜んでいる。

一方はフランスとの戦いで苦い目を合わせられるジャンヌ・ダルクであり、もう一方が、イングランドの骨肉の争いを増幅させる元凶となるマーガレット。

従ってこの第一部の登場人物で印象的だったのは、木場勝己のトールボット、ソニンのジャンヌ・ダルク、中嶋朋子のマーガレットと彼女を捉えてヘンリー六世の妃にしようと画策するサフォーク伯(村井国夫)であった。

マーガレットは一部では最後にしか登場しないのであるが、予兆的な印象の深さがある。

この一部終焉の後の舞台に、ジャンヌ・ダルクの焚刑の跡に、一条の記念碑と黄色い花が添えられているのが印象的であった。

第二部の『敗北と混乱』では、フランス領土を失って失墜したイングランドが内輪の権力をめぐって争うことになる。

摂政グロスター公(中嶋しゅう)と枢機卿ボーフォート(勝部演之)の対立を軸にした宮廷内の権力闘争は、エドワード三世を元にして枝分かれした、プランタジネットという大きな根を同一にする一族間の争いである。

ヘンリー六世は、生後九カ月で偉大な父を失い王位に就いたので、政治のことは幼少よりすべて周囲が執り行ってきている。彼に自分の意思を発する機会というものはなかったし、求められもしなかった。

だが、そんな彼が一度だけ自分の主張を強く通す場面がある。

それはグロスター公殺害の嫌疑で、マーガレットの願いも聞き入れず、サフォーク公を追放した時である。

第二部のもう一つのハイライトは、ジャック・ケード(立川三貴)の反乱であろう。

大衆の不満に乗じて反乱に成功し、一時はロンドン市をも制圧するが、彼らの戦争はお祭りである。

蜂起した時にはボロをまとった大衆が、勝利を重ねて戦利品で得た貴族の衣装などで着飾ってロンドンに侵入する格好は、彼らにとってこの戦争がお祭りであったことを端的に示す。

だから大衆はいとも簡単にジャック・ケードを裏切って、自分の故郷に戻って行く。

ジャック・ケードを演じる立川三貴の喜劇的せりふ回しと所作が、そのお祭り気分を高揚する。

陰謀と策略で暗い基調の中で、明るい灯をともしてくれる救いの場面でもある。

サフォーク公が予言通り、水に関係した名前のウォーター・フィットモア(木場勝己)に殺される場面も、舞台に設えた池が効果的に使用され、印象に残る場面でもあった。

第三部の『薔薇戦争』に至っては、のちのリチャード三世となるリチャード(岡本健一)の印象が濃くなってくる。

プランタジネットの主だった親族は死に絶え、世代交代が進み、今はランカスター家とヨーク家の両家の王権争いとなってくるが、その中で活躍するのがリチャードである。

彼をめぐっての台詞や、彼自身の台詞はもうすでに『リチャード三世』の始まりを示している。

三篇通してみると、全体の中心人物はヘンリー六世であったという印象が残る演出であると思った。

ヘンリー六世は終始、白のローブで清楚なイメージで、最後はまさにキリストとして表象化される。

ヘンリー六世は、マーガレットあってのヘンリーであり、国王であったという意味でも、マーガレットもヘンリー六世と並ぶ中心的人物である。

三部作の舞台構成はそういう意味からしても、一つ一つが独立しながらも関連し、連続した一つの壮大な歴史劇であることを感じさせられる。

総勢38名という出演者が、ラットランド役を演じる高橋郁哉を除けば全員が何らかの役で三部すべてに登場する。その中にあって、浦井健治と中嶋朋子の二人は、終始ヘンリー六世、マーガレットの同じ役柄を演じる。名前は三部を通して同じだが代替わりしている人物として、上杉祥三のウォリック伯、水野隆司のサマセット公役がある。

見どころとしては、出演者が三部を通して役柄を変えての演技も楽しみの一つであった。

木場勝己の第一部のトールボット、第二部のウォーター・フィットモア、第三部ではチョイ役で猟師、立川三貴の、アンジュー公レニエ、ジョン・ケード、フランス王ルイ11世、吉村直のヴァーノン、シンコックス、騎士ジョン・モンゴメリー役など、個性的俳優が役柄を変えて楽しませてくれた。

岡本健一のリチャードも、お決まりのせむしでびっこの類型的人物造形で、カリカチュア化されていて分かりやすく、逆説的な親しみを感じた。

座席は、第一部が18列51番、第二部が15列63番といずれも上手側で、舞台は全体を俯瞰するのにちょうどよい高さの位置であったが、第三部は11列24番で、前列から2番目の下手側、舞台そのものは見上げる形となったが、いずれにしても、見る位置としては文句のない場所であった。

 

プログラムでわが意を得たりと思ったのは、この上演で使用されたテキストの翻訳者小田島雄志の、「『ヘンリー六世』は歴史劇として面白いと思ったし、これは講談だと思った」という言葉である。この講談ということについては、楠美津香のひとり超訳シェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作を観た(聞いた)時に感じたことだった。

またこれまで唯一三部作を一挙上演した出口典雄と、今回の演出をした鵜山仁の対談で、出口典雄が語った、「小田島雄志先生の新訳がきても、いろんな人物が出てくるし、何がなんだかよくわからない、三部作だし、まったくやりたくなかった」という裏話も大変興味のある話であった。

自分も初めて小田島雄志訳でこの三部作を読んだ時、まず登場人物がごちゃごちゃになって何がなんだかわからなかったというのが最初の印象だった。それから原文で他の歴史劇を一通り読んだ後、この三部作も原文で読んではじめてその面白さが分かったという経験がある。

これから先、三部作を忠実に上演される機会というのはまずほとんど考えられないだろう。それだけに貴重な企画であったし、快挙であるとしみじみ思う。

来春には、彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄が松岡和子の新訳、河合祥一郎構成によって、二部構成で同じく一挙上演することが決まっている。これも楽しみであるが、三部作オリジナルでないということが、今回の鵜山仁の『ヘンリー六世』上演がいかに貴重なものであると改めて感じさせるのである。

 

(訳/小田島雄志、演出/鵜山仁、11月7日(土)一部・二部、8日(日)三部を、
新国立劇場・中劇場にて観劇

 

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