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  楠美津香ひとりシェイクスピア 『ヘンリー六世』      No. 2009-032
 

10月5日から27日にかけて新宿のタイニイアリスで、楠美津香が<ひとりシェイクスピア>で、シェイクスピア戦国絵巻と題して、英国史劇八部作を<超訳 薔薇戦争>として、7回にわたって上演。

8作が7作になっているのは、『ヘンリー四世』二部作だけを1作にまとめているため。

できれば7作全部を見てみたいと思ったが、時間とお金との相談で『ヘンリー六世』三部作に絞ることにした。

1演目2500円、7演目一括で14000円、3演目で6600円。

この11月に新国立劇場で鵜山仁演出による『ヘンリー六世』三部作の一挙上演と、来年3月から4月にかけて彩の国さいたま芸術劇場で、蜷川幸雄演出で三部作を二部にまとめての一挙上演が予定されており、楠美津香がそれを果敢にもひとりで演じるのを見ることができるのは、いい魁になると思った。

 

『ヘンリー六世』 part 1 を見る  10月12日(月)夜

ビルの地下を劇場にしたタイニイアリスは、ホームペイジの案内では客席150とあるが、『ヘンリー六世』part1を見た12日は、3連休の最後の日ということもあってか、観客は30数名程度であったと思う。

観客数こそ多くはないが熱気を感じる舞台であった。

舞台の上手側の壁面には薔薇戦争に登場する人物の名前や関係が書かれた紙が貼られており、『ヘンリー六世』の講釈(あえて講釈という言葉を使用するが)に入る前、例によって黒板に登場人物の名前を、ヘンリー六世の名前を中心にして、四つの枠に区切ってその関係を示しながら書き込んでいく。

シェイクスピアの史劇を読んでいてとまどうのは、その名前と関係であるが、その辺の観客の困惑をよくつかんでいて、登場人物をカリカチュア化して紹介するので、本篇に入っていったあとも区別しやすいという配慮がなされている。

たとえばフランスの皇太子シャルルは思い切り関西弁で、ヘビースモーカーにし、マーガレットの父レニエは、松浦弁なる方言をしゃべらせ、イングランド側では、グロースター公は手に扇子を持たせ、政敵ウィンチェスター司教は十字架を手に持たせるなどして分かりやすくしている。

何よりもすごいと思ったのは、かなり漫画チックに演じながらも、全編通して原作に忠実で、肝心な場面がすべて網羅されていたことである。

ジャンヌ・ダルクを少女マンガ的、高校生風な女の子のように演じ、ヘンリー六世はシェイクスピア年齢でなく、史実に即した年齢で演じたのが特に印象的であった。

最後は、シェイクスピアのソネットから55番(「最後の審判」)をギターの伴奏で弾き語り。そして次回『ヘンリー六世』part2の予告編のさわりを演じて終了。

途中休憩10分をはさんで、2時間30分の熱演であった。

 

『ヘンリー六世』 part 2 を見る   10月20日(火)夜

『ヘンリー六世・第一部』は(ヘンリー五世の)葬式の場面から始まり、第二部はヘンリー六世の婚儀の場から始まる、その始まりの対比をこのひとりシェイクスピアで改めて認識させられた。

第一部はイングランドとフランスの戦いが主体となっており、第二部はイングランドの王権をめぐる陰謀と内紛主体となっているというのが、楠美津香の語りで、『ヘンリー六世』三部作の構成が立体的に、かつコンパクトに認識させられる。

Part2の核は、ヘンリー六世の王妃マーガレットとサフォークの関係であろう。

このひとりシェイクスピアでは、大胆にも二人の濡れ場を演じる。

誰が読んでも二人の関係は深い関係であることは明らかだが、それをストレートに表現しているところが大胆で、むしろ新鮮ですらある。

陰にこもった陰謀と内紛をひとり延々と演じ分ける(語りわける)のに、聞いているほうとしてもしだいに疲れてきて後半、とくに終わりの30分近くは朦朧として聞いていた。

終了時間をみると、10時5分前。実に3時間近くの熱演だが、疲れたというのが本音であった。

今日の観客は20数名であった。

 

『ヘンリー六世』 part 3 を見る   10月26日(月)夜

台風20号の影響で東京は終日雨。

それでも出かけるときはタイミング良く、雨は止んでいた。

観客は前回と同じくらいの人数、見覚えのある顔が数人あった。

パート1,2を続けて見てくると大体の様子も分かり、筋も知っているだけに、今回は緊張感も解けてほとんど目をつむって聞いていた。

三部作を3週間にわたって見た正直な感想は、「疲れた」であった(中途半端な座イスの高さは意外に疲れる)。

ひとりで(演じる)シェイクスピアのあり方に対する複雑な感想が錯綜した。

あえてカッコ付きの「演じる」としたのは、演劇というより、「講談」であると思っているからである。

その「講談」としてのシェイクスピアのあり方についてどうあるべきか、さまざまな思いが走った。

シェイクスピアを落語で演じたり、狂言に仕立てたり、実に多様にシェイクスピアが取り入れられているが、それはシェイクスピアの一形態と考えるより、たとえば狂言の新しい境地、落語としての新しい分野、ネタというようにとらえるべきではないかと考えたもりした。

この日は、本題の感想より別の考えにとらわれることが多かった。

 

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