言葉の問題はあったものの、シェイクスピア+ハイナー・ミュラーの面白さは感じられた。
舞台前面は末広がりになった台形で、中央奥にアーチ型の出入り口があり、壁面は幾分抽象的な雰囲気で、ホリゾント上手側は城壁をあしらっており、下手側には鉄梯子を思わせるようなものが斜めに走っている。
側面は照明によっては森の木々にも見えるような抽象的な舞台である。
シェイクスピアのオリジナルと異なる設定は語り手の存在である。
その語り手を通して舞台の進行や、状況、心理的背景が説明され、解釈がなされる。
語り手は、作者であるハイナー・ミュラーその人といえる。
前半部のタイタスは、白い衣装を着ており、寡黙でほとんど語ることがなく、不動の所作で、ストイックで執金剛神像の仏像を思わせるものがあった。
皇帝サターナイナスは、弟のバジエーナスの影に隠れて、皆に笑われる存在であったが、タイタスが彼を皇帝に推挙したことで立場が一挙に覆る。
サターナイナスは自分を一度でも笑ったものは信用しないと宣言し、自分を拒否してバジエーナスを選んだタイタスの娘ラヴィニアも、そしてその兄弟も信用せず、憎み、その意趣返しのようにしてゴート族の女王タモーラを妻に迎える。
ムーア人アーロンの姦計で二人の息子が皇帝の弟バジエーナス殺害の嫌疑で処刑を言い渡される場面では、タイタスの衣装は黒に変わっているが、末の息子リューシアスのローマ追放後は再び白い衣装に戻っている。
タイタスの凋落はゴート人制圧の凱旋勝利帰還の時からすでに始まっているといってもよいが、形象化された悲劇を表象するには、後半部をすべて黒い衣装で通すことがより鮮明になるのではないかと思った。
タイタスは、この二人の息子の処刑を機にして、その沈黙を破って饒舌になる。
皇帝サターナイナスとタモーラを招いての宴会の席に、リューシアスに捕えられたアーロンが引き出され、彼の悪事の数々が暴露され、サターナイナスもすべてを悟るが、最も大きな違いとしては、アーロンとタモーラの不義の赤子が、アーロンの眼前で床に叩きつけられ脳天を割られて殺されるところである。
タモーラはタイタスに喉笛を噛み切られて死に、タイタスはサターナイナスに殺され、そのサターナイナスも殺される。
最後に、語り手ハイナー・ミュラーが、ローマの没落、地球という惑星の没落を予兆する。
台詞はルーマニア語で演じられるので当然ながら理解できないのであるが、その身体表現によって物語の流れはよく理解できる。
言葉の分からないもどかしさについては、日本語を理解しない海外の人たちにどこまでそれが理解できたのかを考えさせるものがあったという点で蜷川幸雄のシェイクスピア海外公演を思った。
ブランドラ劇場と演出家のアレキサンドル・ダリエはこれまでにも何度か日本に来ていて、たどってみると自分は1995年のパナソニック・グローブ座(当時)での来日公演『ジュリアス・シーザー』を見ているが、残念ながら全く記憶に残っていなかった。
作/ハイナー・ミュラー、演出/アレキサンドル・ダリエ
10月2日(金)夜、紀伊国屋サザンシアター
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