〜 多摩FM放送‘シェイクスピアン・カフェ’番組に出演して語る 〜
8月17日、FM多摩放送‘シェイクスピアン・カフェ’のサマー・スペシャル「シェイクスピアと自然」の番組の収録に、英国シェイクスピア観劇ツアーにご一緒した‘雑司ヶ谷の森の会’の薗田美和子さんと出演した。
番組では、今回のシェイクスピア観劇の感想などを中心に二人で語ったのであるが、観劇日記に書き忘れていたことや、薗田さんのお話で気づいたことなど、そのままにしておくのももったいないので、日記の続編として追加する。
今回のツアーで一番良かったと感じた作品は、二人とも共通して’ALL’s Well That Ends Well’であった。
薗田さんのご指摘で特に自分としても同じ意見で書き残しておきたいことが二点ある。
一つはこの『終わりよければ』の物語がフェアリーテールズであるという共通した意見に関するもので、薗田さんのご指摘された点は、ヒロインのヘレナの衣裳であった。>
ヘレナが最初に登場してきたとき、彼女の服装はモスグリーンの、「不思議な国のアリス」のアリスそのままで、ヘレナがバートラムを追ってフローレンスに旅立った時は、赤いマントをはおって「赤ずきんちゃん」を連想させるものであったことを指摘された。
私の方からヘレナとバートラムの結婚式で、ヘレナが着ている衣裳と靴は「シンデレラ」のそれであったことを付け加えた。
今回の『終わりよければ』が、本で読む印象と異なって楽しくさわやかな点は、ヘレナのサクセスストーリーとしての面白さと、このおとぎ話的なところにあると思うのだが、それを衣裳の形ではっきりと表象している着眼点が素晴らしいと思った。
薗田さんが強調されたもう一点は、ヘレナの貞節についての問題である。
今回のツアーの引率者である本橋先生のご意見では、フランス王の病は一種の性病で、それをヘレナが自分の体を使って治癒したということに対する反論であった。
薗田さんはシェイクスピアの作品では女性の貞節ということについて非常に重要なテーマとして取り扱っていて、それからしてもヘレナが自分の貞節を犠牲することはあり得ないと主張される。
この意見は私もその通りだと思う。
それはシェイクスピアのどの作品を読んでも言えることだと思う。
今回のマリアンヌ・エリオットの演出を見ても、劇の舞台そのものではヘレナが自分の体を使って王の病を治したというものを直接的に表現するものはなにもない。
しいて言えば、病がいえた王がヘレナと手を取り合って登場する場面であるが、それはヘレナの貞節を疑う見る者の偏見がそうさせるものだろう。
ヘレナが自分の貞節を犠牲にして王の病を治すという考え方は特にめずらしい意見でもないが、今回の演出の意図から見てそれはないと思う。
それではヘレナのサクセスストーリーにもならないし、おとぎ話にもならない。
特に、今回の演出ではバートラムを舞台の最初に登場させて、彼がひとり戦争ごっこに夢中になっている場面を描くことで、彼の幼児性、子ども子どもした姿を表出している点などと考え合わせても、ヘレナの貞節の犠牲を考えるのは演出の意図を根底から踏みにじることになる。
番組放送の時間は15分から20分以内であるのに、収録での懇談は45分にも及んで、それでも話はつきず、あとはこの番組のマスターである関場理一先生と蕎麦屋でビールを肴にして続けた。
番組の話題とは関係ないが、今回のツアーの作品で、自分の思い込みの記憶違いなど多々あって、それをきちんと確認していなかったことなど、反省点もある。
一つは、『冬物語』を演出したサム・メンデスに関する記憶違い。
どういうわけか、私はずっとスティーブン・バーコフ主演・演出の『コリオレーナス』の演出をサム・メンデス演出と思いこんでいた。どこでそのような思い違いが生じたのか、不思議でならないのだが。
また、私の記憶に残る『冬物語』の一つであるRSC来日公演(94年、銀座セゾン劇場)のそれがトレーヴァー・ナンの演出(実際はエイドリアン・ノーブルの演出)と思い違いしていたこと。
また、サモン・ラッセル・ビールとマーク・ライアンスを混同していた間違いなど、自分の記憶のいい加減さにあきれるほかない。
何よりも驚いたのが、『お気に召すまま』の過去の観劇チケットを見直していて気づいたのが、私が最も気にいっている『お気に召すまま』の上演のうちの一つで、The Red Companyの東京グローブ座での来日公演(98年10月)の演出が、今回『ジュリアス・シーザー』を演出したルーシー・ベイリーであったことである。
今回の演出と比べると、彼女の演出の幅の広さに驚くほかはない。
そのほか、関場先生、薗田さんと話した内容は書ききれないほどあるが、特に印象に残ったことだけにとどめざるを得ない。
(8月18日早朝に記す) |