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  英国、シェイクスピア観劇ツアー 日記      No. 2009-026
 

<出発を前にして>

8月7日より14日まで、東京経済大学の本橋哲也教授引率による「英国演劇鑑賞研修旅行」に参加。

6月29日には、東京経済大学キャンパスにおいて、ツアー参加者の顔合わせと旅行社による説明に加え、本橋教授より今回観劇予定のシェイクスピア劇について、先生のレジュメを元に懇切丁寧な解説がなされた。

参加者は、本橋先生を除いて6名。

雑司ヶ谷シェイクスピアの森から自分を含めて2名、町田のシェイクスピア・ファクトリーからも2名、東京経済大学の学生が1名、以上はすべて今回が初めての参加。そしてこのツアーの企画のほとんど全部に参加していて、今回で合計34本(作品数で28本)の観劇となるH氏を含めて、男性3名、女性3名の混成グループとなった。

今回観劇の作品は、ストラットフォードのコートヤード劇場での『お気に召すまま』と『ジュリアス・シーザー』、ロンドンでは、オールトヴィック劇場の『冬物語』とナショナルシアターでの『終わりよければすべてよし』の合計4本。

今回のツアーは、本橋先生が強く推しているサム・メンデス演出『冬物語』を中心にして企画が組まれ、旅行社の都合で当初の日程から1日延長になったおかげで、『終わりよければすべてよし』があとから組み込まれ、結果的には自分にとっては最高の観劇の組み合わせとなった。

今回鑑賞の4作品に共通したテーマとして、本橋先生より「家父長制度の構造とその矛盾」ということでまとめられ、これらの劇を見る視点としてひとつの参考になった。

 

<8月9日昼、ストラットフォード、コートヤード劇場にて> As You Like It

RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)芸術監督、マイケル・ボイド演出。

座席はストール(劇場1階の特別席)で、D列14番。

舞台正面からは上手側の席で、俳優の台詞で唾が飛ぶのが見える位置で、この上なくいい場所であった。

張出舞台の床とホリゾントの色は白一色で統一。

ホリゾントは約1.2m四方の格子が升目状の仕切りで、舞台中央が開閉式の扉の構造となっており、それぞれの格子も開閉でき、人の出這入りだけでなく、開ければ後方の風景が覗かれる構造となっている。

宮廷人の衣裳はエリザベス朝の黒色のサティンでシックな上品さを表しているが、一方で束縛と抑圧を感じさせる。そのことをシンボリックに表象していたのは、道化のタッチストーンの衣裳。

彼の衣裳は拘束衣のようになっていて、足の動きの自由がきかないようになっている。

衣裳において目についたのは、ロザリンドだけがカラーをつけていないことであった。

そこに宮廷における彼女の立場、差別を感じた。

宮廷から転じて、アーデンの森の場面では、追放された公爵や彼に従ってきた宮廷人たちは、舞台奈落のトラップをはねあげ、勢いよく登場する。

時は冬。森には緑がなく、あるのは枯れ木ばかり。

森は苛酷な自然の場所であるが、一方では解放された場所でもある。

 

 
   

その森では、アミアンズの歌を奪ってジェークィーズが歌い、観客の拍手を求める所作がおかしみを誘い出す。

宮廷では衣裳においても自由が束縛されて、動きも不活発でであったのが、ギャニミードに変装して森に逃亡してきたロザリンドは男装の衣裳で、動きも生き返ったように活発となる。

男装のロザリンドがズボンを半分脱いで、男性の一物としてスポンジのようなものを股に挟んでいるのを取り出して、シーリア(というより観客に向かって)に見せつける、そんな遊びの場面を取り込んでいるのが面白い。

自然の苛酷さを表出している場面としては、休憩後の2幕目の冒頭の場面―開演時もそうであったが、日本のように携帯の電源を切りましょうとか何とかの無駄な放送案内もなく、客電も落ちないうちに場面が自然に展開していくところがいい―羊飼いがウサギの皮を剥ぎ、鉈で首を切るところなどは、自然の苛酷さの象徴性を感じさせる。

大詰めの大円団、四組の結婚式の趣向が楽しく、面白い。

ここにきて、衣裳の自由度が全開する。

道化のタッチストーンの結婚相手、山羊番の娘オードリーはタイトな白のツーピースに踵の高いハイヒールを履いていて、今にも転びそう。

タッチストーンの拘束衣のズボンの拘束紐も解けている。

羊飼いがハイメンとなって伴ってくるロザリンドの花嫁衣裳は、初夏を感じさせる普段着のワンピース姿。

舞台の構造としては、ギャニミードがオーランドーを前にしてロザリンドを演じて恋人ごっこをするのを離れた位置で見るシーリアの演出法など、なかなかおもしろいものがあった。

今回見た4作品の相対比較(順位)としての自分の評価、★★★

 

 

<8月9日夜、同じくストラットフォードのコートヤード劇場にて>Juliius Caesar

ルーシー・ベイリーは、RSC芸術監督のマイケル・ボイドの招聘で今回初めのてRSCでの演出。

彼女はオペラやミュージカルなどの演出から出発し、シェイクスピア劇はグローブ座で『お気に召すまま』、『タイタス・アンドロニカス』、『アテネのタイモン』を演出している。

事前の情報として今回の『ジュリアス・シーザー』は彼女の『タイタス・アンドロニカス』と同様な血生臭い劇だということで、なんとなく観る前から気が引けていたが、結果としても見終わった印象はあまり気持ちのいいものではなった、というのが自分の印象であった。

昼間の席と異なり、今度はギャラリー(3階席、B列12番)で、舞台は真上から見下ろす感じで人物の表情がよく捉えられないという不満を感じた。

それ以上に、高所恐怖症もあって、上から下を眺めていると吸い込まれて落ちて行きそうで、落ち着いた気がしなかった。

昼間の舞台と打って変わって、床は血にまみれた大地。ホリゾントは、紗幕のスクリーンパネルが1m間隔ぐらいに並べられていて、それが斜めになったり、直列になったりして、登場人物の出入り口の役をしたり、文字通りスクリーンとなってローマの大衆や軍隊の兵士の集合を写し出す役割もしている。

開幕時、舞台後方の上部にはオオカミとその乳を飲んでいるロムルスとレムスの双子の兄弟の像が映し出されている。

開演の前から、舞台上では奴隷の戦士が力尽きて死ぬまでの勝負を戦っていて、この劇の暴力性を暗示。

ルーシー・ベイリーのテーマは、「暴力の世界」ローマで、それはかっこいい世界ではなく、ドロドロしい世界である。

ローマ建国伝説のロムルスの像でまず想像したのは、蜷川幸雄演出の『タイタス・アンドロニカス』―そこでのロムルスのオオカミ像は巨大で、真っ白なものであった。

蜷川の『タイタス・アンドロニカス』は、血みどろの世界を描いてはいるが、歌舞伎的な造形美があって、ルーシー・ベイリーのそれとは大きく異なる。

蜷川の造形美に対して、ルーシー・ベイリーは人間の肉体美とその脆さを表象して、戦士は半裸の肉体に鎧を身につけるという方法をとっている。

紗幕のスクリーンの使用法は、蜷川の鏡を用いての群衆を増幅するという手法と似通っているし、ロムルスとオオカミの像は明らかに蜷川の『タイタス・アンドロニカス』を想起させるが、その効果は全く異なる印象である。

ルーシー・ベイリーの描く『ジュリアス・シーザー』のコンセプトが自分のイメージと異なっていて、全体的にもあまり好ましさを感じる演出ではなかった。

シーザーの人物像も卑小に感じ、アントーニアスの追悼演説も説得力に乏しく、不満足。

ということで、★★

 

<8月11日夜、ロンドン、オールドヴィック劇場にて> The Winter’s Tale

本橋先生お薦めの、というか先生の今回の最大の目的であるサム・メンデス演出。

メンデスは、今はハリウッドで映画監督として活躍しており、舞台は今回久しぶりの演出ということで、チケットの入手もかなり苦労されたということである。

席は2階席であったが、舞台中央(C列15番)で、見る角度としては申し分なかった。

舞台は、張出舞台の上に開帳場(八百屋)を乗せた構造。 

開帳場の舞台下手には大きな寝台。

上手は、方形のテーブルと椅子があり、テーブルの上にはチェスのゲームと飲み物がのっている。

舞台中央にはクッションが並べられていてカウチのようにして使われる。

舞台後方は薄暗く、ガラスの容器に入った蝋燭が無数にぶら下げられている。

それは何かを表象しているようであるが、何かは分からない。

しかしいろんな読み方ができそうだということで、その効果は感じられる。

アーキデーマスとカミローの二人の会話の場面はなく、いきなりリオンティーズ、ハーマイオニ、マミリアス、ポリクシニーズその他が登場。

ハーマイオニがポリクシニーズの滞在を引き延ばす会話と所作では、二人はクッションのカウチに横になって、掌を合わせたり、絡ませたりして、演技としてもかなりきわどい。

これまで見てきた『冬物語』のリオンティーズの嫉妬は、激昂に近い演技が多かったが、サイモン・ラッセル・ビールのリオンティーズはもっと内面的、内省的な印象であった。

不自然な感じで違和感を覚えたのは、ハーマイオニを裁く法廷の場面。

舞台中央には長テーブルがあり、その中央に黒服の役人(裁判官)、上手にリオンティーズ、下手にハーマイオニが座り、ハーマイオニの後方には侍女が四人椅子に座って傍聴しているが、リオンティーズの側には貴族も陪席せず、王ひとりが出廷。

クリオミニーズとダイオンのアポロンの託宣の場では、箱を開くと羽ペンが出てきて、それがテーブルの上をひとりでに動いて託宣を描くという手法をとっていて、ちょっと子供だましのような印象であった。

アポロンの怒りの雷鳴も迫力に乏しく、説得力に欠ける気がした。

面白いと思ったのは、ボヘミアの海岸でアンティゴナスがクマに襲われたあと、羊飼いが現れ、第3幕から第4幕に移る場面では、その羊飼いが後ろ向きからいきなり振り返って正面を向き、帽子を放り投げて、「時」のコーラス役を演じたことだった。

これは意外で面白い趣向だと思った。

今回のメンデスのカンパニーは、ブリッジ・プロジェクトとしてアメリカの俳優とイギリスの俳優がまったく半々の構成になるカンパニーで、セリフ回しでは伝統的な発音とはかなり異なって聞こえる部分もあったが、その分親しみもあったような気がする。

キャスティングでは、マイケル・アルメレイダ監督の映画、現代版『ハムレット』でハムレットを演じたイーサン・ホークがオートリカスを演じており、これも楽しみに期待していたが、それなりに面白いと思った。


イーサン・ホーク
 

羊飼いの毛刈り祭りでは、風船が祭りの気分を昂揚するのに効果的な役割を果たしていたが、この趣向はエイドリアン・ノーブル演出の『冬物語』でも記憶が鮮明に残っている(1994年3−4月、銀座セゾン劇場(当時)でRSCが来日公演)。

その毛刈り祭りの鮮烈な印象としては、羊飼いの男女の踊り。

娘たちは風船を二つ胸につけ、巨乳をシンボル化し、男たちは男の一物をカリカチュア化したへちまほどのサイズの細長い風船を股にはさんで、それを娘たちのスカートの中に差し込むという卑猥な踊りを踊る。

『冬物語』では、このオートリカスが登場する毛刈り祭りの場面が最も好きな場面の一つであるが、これについては十分に堪能させてもらった。

日本の演出ではその多くが最も感動的な場面となるハーマイオニの彫像が動く場面、サム・メンデスの演出では、最初の場面にあった蝋燭が再び登場し、感動的な場面の効果を高める。

ハーマイオニの彫像は一瞬の間に登場し、観客に背を向けた形で舞台中央に立ち、ギリシア彫刻のようなポーズをとって、神々しさを感じさせる。

神々しさは感じるが、日本の舞台で感じたような感動とは少し異なる、つまり涙が出るには至らない。

ハーマイオニがリオンティーズと抱擁し、パーディタに声をかけ、抱擁し、大円団を迎えて一同引き下がるとき、リオンティーズはハーマイオニに手を差し伸べるが、ハーマイオニはその手をとらないまま、場面は終わる。

この手法では、むしろ涙が出ない方がより効果的な感じがする。(どちらがいいということではなく)

エイドリアン・ノーブルとの比較で、★★★★

 

<8月12日昼、ナショナルシアターのオリヴィエ劇場にて> All’s Well That Ends Well

ナショナルシアターのアソーシエイト・ディレクター、マリアンヌ・エリオット演出。

舞台は半円形の張出舞台、後方の舞台装置とあわせてほぼ円形をなす。色調は全体的に黒を基調とする。

今回の座席はストールのF列6番、舞台上手側で、位置的にも全体を見渡すのに申し分ないいい席であった。

これは本来予定になかった観劇の演目で、1日延長が決まったとき追加されたものであるが、結果的には最高によく、満足できるものであった。

作品自体は自分で読んでいて、バートラムの不誠実な人柄や、臆病でほらふきのペイローレスの不愉快な性格の印象で好きになれない作品であったが、演出によってこうも違う印象となるものかといういい例であった。

『終わりよければ』は、いわゆるダークコメディといわれる「問題劇」の一つであるが、問題劇の特徴としては、ドーヴァー・ウィルソンの要約に従えば、

陰気な雰囲気

陽気な機知

好ましい人物も全く立派でない

辛口のユーモア

難問で困らせる劇 ― 道徳上の難題、もつれた動機、葛藤する人物

 

ということになるが、『終わりよければすべてよし』はこのすべてを含んでいるといえるだろう。

この劇を見終わっていやみを感じなかったのは、ヘレナの成功譚というおとぎ話にすることで、まさに終わりよければすべてよし、の感じからくるものだろう。

『終わりよければ』の批評史をめくってみると、18世紀にはペイローレスが喜劇的人物の中でもフォルスタッフに次ぐ傑作だと称賛され、19世紀前半ではそのペイローレス称賛は消え、ヘレナが美化されるようになったということであるが、今回の劇を見る限り、この二つのいいとこ取りをしているような感じで、そこが成功している原因ではないかと思う。

バートラムの不誠実な性格も、開演早々に彼がひとり、剣を振り回して戦争ごっこにふけっている場面をもってくることで、バートラムという人物がまだ子どもの気分であることから抜けきっていないということを描いている。

そんな彼が、フランス王から突然ヘレナとの結婚を押し付けられれば当惑するのも当然で、しかもヘレナは彼にとっては召使同然の存在でしかなかったのであるから。

この場面はバートラムの不誠実として特に責められるものではないが、一番不愉快に感じるのが、ダイアナとの関係を否定したり、指環の問題で嘘にウソを重ねるところがもっとも彼の人間性を疑わせるところで、そんな不誠実な彼をどこまでも追いかけるヘレナも気が知れないという気分にさせられるのであるが、大人になりきれていないバートラムに対し、彼が課した結婚の条件をすべて達成するヘレナの成功譚としてのおとぎ話の構造だとして見ると、不自然さも消えてくる。

コンレス・ヒルが演じるペイローレスも、フォルスタッフを一回り小型にしたような喜劇的人物を演じていて、バートラム同様に嘘にウソを重ねることで馬脚を顕すところが、主従似た者同士という感じがよく出ている。

病気が快癒した王とヘレナが手を取り合って登場する場面、ヘレナとバートラムの結婚式のあと二人の関係を暗示するようなシルエット、バートラムがヘレナから逃れてフローレンスの戦争に参加する場面を彼が弓を引く姿で映し出すなど、思わせぶりの場面では、下手側の扉に登場する人物を逆光で照射することでシルエットにして、観客の想像力を喚起させるのが効果的だったと思う。

ダイアナとヘレナのベッドトリックの場面では、二人がバニーガールの衣裳をつけ、最初はダイアナがバートラムを迎え入れるが、いよいよの段階になるとバートラムに目隠しをし、そこで二人が入れ替わるという趣向を凝らしている。

このバ−トラムの目隠しは、同時並行的に進行しているペイローレスが味方に欺かれて捕われ目隠しをされる場面と照応し、象徴的な意味合いを呼び起こす。

喜劇的なおかしみを誘う演出としては、バートラムの再婚相手のラフュー卿の娘を登場させている。

台詞はないが、彼女の存在自体が喜劇的で、それは彼女が度の強いメガネをかけ、年寄りじみた猫背で、手毬にひもをつけて引きずっている姿が、見ているだけでアイロニーを感じさせる面白さがある。

ユーモラスなおかしみを感じさせる王の執事は、腰が直角に折れ曲がっており、随所で滑稽な所作をするが、ヘレナの成功譚で舞台が終わろうとする時、そのめでたい喜びの様子の全員の写真を撮ったり、王とヘレナ、ヘレナとバートラムの写真を撮って回ったりする。

そのとき、舞台上手側からはその表情は見えないのであるが、自分とは反対側の下手側から見ていたFさんの話では、バートラムとヘレナが二人並んで写真を撮られるとき、二人の表情がこわばっているような、先行きの不安を予兆するような表情であったという。

これなどは見える角度によって、芝居を見る印象が異なる好例であろう。

ヘレナ役のミシェル・テリー、ペイローレス役のコンレス・ヒルが好演、ロシリオン伯爵夫人のクレア・ヒギンズは存在感を感じさせる演技であった。

甲乙つけがたいが、サム・メンデスの『冬物語』とどちらかに軍パイをあげるとすると、こちらをとるということで、

★<総括として>★★★★

各評価は自分の感想としての順位づけに基づく星の数であるが、全体的にはいずれもそれぞれに特色のある作品で、本橋先生による絶妙な組み合わせであった。

偶然であるが、演出家も女性が二人、男性が二人という組み合わせで、これも面白かった。

各劇場での座席も、ストール、ギャラリーなどいろいろな場所での観劇を体験できたのもよかった。

それに今回一緒に参加した人たちも、気がおけず、旅を楽しくしてくれた。

また、事前学習をしていただき、ストラットフォードとロンドンでは、観劇後、お互いの感想を披露しあう機会を設けて、最後にレジュメをしていただいた本橋先生に改めて謝意を表したい。

 

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