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  ASC公演 『ヴェニスの商人』      No. 2009-014
 

〜 がざびぃ芝居月、 それぞれのシェイクスピア第三弾 『肉はきれないよ』 〜

本公演のキャッチコピー、「肉はきれないよ」。

一語にして『ヴェニスの商人』の核心部を突いていて、それでいてなんとも言えないユーモラスな感じを与える。

彩乃木崇之のチラシのキャッチフレーズは、シェイクスピア作品を読み解く公理とも称すべきものがあり、いつも感心させられ、また僕としてもそれを楽しみにしている。

公演初日は、あいにくの雨であった。

それにもかかわらず「遊空間がざびぃ」の客席のスペースはほとんど満席であった(舞台周囲がすべて観客席なのでその気になれば客席は作れるであろうが、予定の席は埋めつくされていた)。

雨のため外は肌寒く、僕も今日はセーターを着込んで行ったのだが、舞台は開演前からもう熱気を帯びていて、すぐにセーターは脱いでしまった。

ASCとしては一昨年11月の『タイタス』以来、シェイクスピアの本公演はおよそ1年半ぶりのことである。

その『タイタス』の後、劇団としてもいろいろなこともあったようだが、今回は再生ASCの再出発でもあり、また彩乃木崇之の新しい手法である「ニューフィクション・メソッド」の実践初舞台でもあるということで、僕としても非常に楽しみとしていた舞台であった。

360度周囲ぐるりが客席となっているので、開演前は出演者の役者も観客とほとんど混然となっていて、すでにいい雰囲気が出ている。

チラシの案内では、「演目、配役は当日の観客のリクエストで決定!?」となっており、誰が何を演じるのか当日まで分からなかったのだが、結果的には同一のキャステイングで落ち着いたようである。

ASCのブログを通して劇団AUNの沢海陽子の客演を知ったとき、ポーシャを演じるであろう日野聡子にとっていい刺激になるだけでなく、沢海陽子がネリッサを演じれば日野聡子に相乗効果が表れるのではないかとひそかに期待していたのが、この日の舞台ではその期待通りの効果があったのではないかと感じられた。

つまり、僕が思うには沢海陽子の演技のサポートでポーシャの演技に軽やかさを出すことができたのではないかと思う。

僕がまったく知らなかった役者でグラシアーノを演じた谷畑聡には、開演前から彼の目の輝きに惹かれていたのだが、実際の演技でもその眼の輝きを裏切らないはつらつとしたものがあって、これも期待に答えてくれた。

バッサーニオを演じた浜野基彦も今回初めて知った役者だが、精悍なさわやかさがあった。

サレーリオやモロッコの大公、老ゴボーを演じた後藤敦、そしてサリーリオ、アラゴンの大公、ヴェニスの公爵などを演じた藤田三三三も、ひとりで何役もこなしながら舞台を盛り上げて熱演、その力量を感じさせるものであった。

ASCの客演としては常連の戸谷昌弘は沈着なアントーニオを演じ、シャイロックは劇団代表の彩乃木崇之が幅の広い演技を見せてくれた。

その肝心の舞台の見どころとして、随所に面白い工夫や仕掛けがあったが、なかでもユニークな扱いがジェシカ。

ジェシカを演じたのはニューフェイスで、若い荒井真鈴(マリン)。

シャイロックとの親子の関係の演技がそのユニークな扱いの一つ。

シャイロックはジェシカに特別の愛情を持った接し方をし(演出、演技にもそれが表出されている)、それを受けるジェシカの心は複雑なものがあり、そのことがロレンゾーとの駆け落ちにつながってくるのではないかと思うが、そこのところはうまく表現が伝わってこず、見えない部分があった(ひょっとして読み過ぎ?!)。

しかし最後の大円団の場で、シャイロックの財産譲渡の証書(シャイロックの改宗を示す十字架の短剣で表象されている)を受け取ったとき、ジェシカは父親の運命をすべて覚ったかのように、壁に掛けた仮装行列に使った仮面にその証書の印である短剣を刺して逃げるようにして退場するのがすべてを語っている気がした。

人肉裁判で敗れたシャイロックは、グラシアーノやバッサーニオらの手によって、アントーニオが繋がれていた鎖で首を絞められる場面がある。

その場面は実際には暗転してしまっていて、事態を想像させるものでしかないのだが、シャイロックの首を絞める鎖の音響効果だけがそのことを暗示しているのだった。

そのことをどのように解釈するかは観客の想像に任されると思うのだが、ジェシカは財産譲渡の証書によって、父親の最後(あるいは父親の絶望的な孤独)を覚ったような印象を感じた。

その人肉裁判では、シャイロックをほとんど名前で呼ばずユダヤ人と呼ぶポーシャは、そのことゆえに、力が入ってうまく演じれば演じるほど非常に嫌な女に感じさせることがあるのだが、日野聡子のポーシャはおとぎ話の軽やかさがあって、その嫌みを感じさせなかったのは役得だった。

特徴的だったのは、戸谷昌弘のアントーニオの憂鬱。

アントーニオが舞台の最初で打ち明ける憂鬱は、彼が劇の最後に示す憂鬱の予兆であったと思わせる終わり方で、それは絶対的な孤独感のようなものであり、その原因はバッサーニオへの愛であったと感じさせるのだった。

そしてそれは舞台の円環構造を想像させるものでもあった。

 

楽屋裏まで演技の場に使って狭い空間を広く活用し、役者が舞台に出ずっぱりなのをうまく利用して場面をオーバーラップさせながらの、テンポの速い、軽快で、チョイ役でしか登場しないポーシャの召使役まで含めて、出演者全員が主役のように感じる、弾けるような楽しい舞台であった。

(訳/小田島雄志、演出/彩乃木崇之、西荻窪・‘遊空間がざびぃ’にて、4月25日(土)昼の部観劇)

 

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