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  彩の国シェイクスピア・シリーズNo.21『冬物語』      No. 2009-002
 

蜷川マジック。

ハーマイオニの生きた彫像にそれを見た。

ポーライナ(藤田弓子)がカーテンを開くと、高い台座の上に白い衣裳のハーマイオニの立像(高橋永江)が立っている。が、そこにはいつもは感じられる感動がない。

ただの立像がそこにある、という印象でしかなかった。

しかし、ポーライナがレオンティーズ(唐沢寿明)のハーマイオニの立像に触れようとする衝動を抑えるために、いったんカーテンを閉じ、再びハーマイオニの彫像がそこに現われるとき、そこには荘厳で、厳粛な光がっていた。

その光の中に浮かび上がってくる彫像は、前半でハーマイオニを演じ、後半で今までパーディタを演じていた田中裕子に変わっていた。

それは塑像から彫像への昇華ともいうべき変貌であった。

内面からの感動が静かに波打ってくる。

それは蜷川マジックとしか言いようのない神聖な変容であった。

生きたハーマイオニの彫像の感動はこれまでにもいくたびか、他の舞台で見てきた。

その感動が今回、最初の(身代わりの)立像ではまったくの感動が感じられなかったのに、入れ替わった彫像から受ける感動の、その大きな違いの落差にマジックを感じた。

実を言えば、この舞台を見るまでは田中裕子がハーマイオニとパーディタの二役を演じるということに肯定的な気持ちではなかった。

生き写しということでそれを表出するために同一人物が演じるということの安直さ(?)に抵抗感があった。

それを安直さと呼ぶ自分の読みの甘さを、蜷川幸雄によって厳しくつきつけられたのだけれど。

舞台を見終わった後にプログラムを見て、田中裕子が『ペリクルーズ』で同じように母娘の二役をしていたことにふれられていて、そのことをまったく失念していた自分の軽率さと物忘れのよさにがっくりした。

(そういうこともあって備忘録としてこの観劇日記をつけているのだけれど・・・)

舞台が始まる前には、チラシにのっているキャスティングで、高橋永江がハーマイオニとパーディタの二つの役がついていたのに、「?」と感じていた。

その疑問は、ポーライナが二度目にカーテンが開けたとき、それまでパーディタを演じていた田中裕子と、ハーマイオニの立像の高橋永江が素早く入れ替わっていたことで解けた。

 

今回の蜷川演出のもう一つの大きな特徴は、休憩を挟んで二幕の幕開き、口上役の「時」の登場にあった。

「時」は腰布一つで、ほとんど裸の状態で、舞台中央に丸くまるまっている。

それは生まれたばかりの赤ん坊の様子なので、捨てられたパーディタを表わしているのかと一瞬考えさせられた。

が、その誤解はすぐに解かれる。

「時」は人生の7つの舞台を演じ、それを表象する仮面を次々に顔から剥いでいき、最後にはよぼよぼの老人となり、『お気に召すまま』のセリフを想起させる。

鮮やかな印象であった。

時が一足飛びに超えた16年の歳月は、次に登場するカミロー(原康義)の台詞では、原文では「私が国を出てからもう15年になります」(松岡和子訳)とあるのだが、そこは整合性を持たせて、台詞でも「16年」に直していたのも細かい配慮だと思った。

 

舞台の特徴としてもう一つ。

開幕早々の舞台に紙飛行機が旋回している。

レオンティーズの宮殿の場では、その紙飛行機は2つであった。

ボヘミアのポリクシニーズ(横田栄司)の宮殿の場では紙飛行機は1つになり、再びシチリアの場に戻ったとき、紙飛行機を手にして登場したレオンティーズは、それを引き破る。

そしてすべてが終わった後、舞台には再び紙飛行機が2つ、ゆっくりと舞台上部を旋回している。

開演時の紙飛行機が飛んでいる場面では小さな子どもの哄笑が聞こえるので、その紙飛行機が意図しているものがなんとなく感じられるのだが、「レオンティーズとポリクシニーズの二人が仲の良かった時代を表わす」という蜷川幸雄のプログラムに載せている言葉でそれが確信される。(蜷川幸雄はもっと深遠な意味を含ませているが)

紙飛行機の数の変化が象徴的に感じるのだが、それが何を象徴しているのかというと「感じ」としか言いようがないもだが。

 

以上の3点が舞台を見ての強い印象であるが、今回見るに当たって事前の楽しみもあった。

その一つが、蜷川シェイクスピア・シリーズでも常連の嵯川哲朗がオートリカスを演じることであった。

プログラムの本人の弁にもあったが、およそ予想に反したキャスティングで、そこのところが逆に興味を引いた。

これまでこのシリーズで見てきた彼の役柄からしても意表をついたものであり、普通では考えつかないキャスティング、だからこそ絶えざる変革と挑戦を試みる蜷川幸雄的というべきかもしれない。

既成概念をぶっ壊すことで、そこに新しい活力を作り上げる。

道化を演じる大石継太も同じようにこれまでとはまったく異なるようなキャスティングであり、嵯川哲朗同様な効果があったと思う。

羊飼いを演じる六平直正の出演も楽しみにしていた一人。

舞台では新宿梁山泊以外で見るのは初めてになるが、その強烈な個性(彼は顔だけでもう個性が爆発しているという稀有な存在感がある)は、期待通り答えてくれた。

 

舞台の主役はなんといってもレオンティーズの唐突な嫉妬。

それがどれだけリアルに感じられるかでこの舞台を決定してしまうといっても過言ではないのだが、唐沢寿明はそれを納得させるだけの演技であったと思う。

この嫉妬は、理屈では説明できない感情の起伏なので、演じる方も見る方も理屈を超えたところで感じられるものが必要で、嘘っぽくならないようにすることが大事な点だと思う。

その激しい情念とシチリアの明るさを表象してか、シチリアの貴族は全員赤を基調としている衣裳。

舞台背景のホリゾントも赤味を帯びている。

一方ボヘミア王のポリクシニーズは海(実際にはボヘミアは内陸なのだが)をイメージした青を基調にしており、衣裳も青色。

陰の主役として、阿部海太郎の音楽に特色があった。

クライマックスを感じさせる場面で、天を貫くようなエキゾティック(自分で勝手にヘブライ的と表現しているのだが)で哀調のある歌唱が挿入され、それが胸に迫って、非常に効果的に感じた。

衣裳の小峰リリー、舞台美術の中越司をはじめ、いつもながら蜷川舞台は舞台を総合芸術として見せてくれる。

 

(訳/松岡和子、演出/蜷川幸雄、1月28日(水)昼の部、彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて観劇、
座席はS席だが、1階の最後列の右端、T列21番)

 

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