高木登 観劇日記トップページへ
 
  パルコ・プロデュース公演 いのうえ meets シェイクスピア
               『リチャード三世』            
No. 2009-001

 いのうえひでのりが、600年以上昔の英国を、1960年代後半のスィンギング・ロンドンに還元することで身近な昔というレトロな気分に作り出す、実に多義性のある、多様性に富んだ、まったく新しい古田新太のリチャード三世が登場した。
 ユニオンジャックに象徴されるスィンギング・ロンドンで最も重要な現象であった、価値観の大転換がここに生まれる。その象徴であるユニオンジャックがしばしば登場する。
 エドワード四世の衣裳にもユニオンジャックが用いられていて、それを見た瞬間、思わず笑いを誘った。
 演出のいのうえひでのりが学んだ大阪芸大では1年生のときに必ずシェイクスピアの劇をやらせることになっているらしいが、劇団☆新感線を主宰するいのうえが本格的にシェイクスピアを演出するのは今回が初めてという。
 特に若い人の間で人気がある劇団☆新感線のチケットは通常ではなかなか手に入らない。
 今回は劇団☆新感線としての公演ではないが、キャストの顔ぶれだけからしてもチケットの入手はいっそう困難だった。そこを考慮してか、シェイクスピアとは関係ない観客をおもんばかっての工夫が感じられた。
 シェイクスピアの歴史劇はシェイクスピアを読んでいる者にとっても、その人物関係がややこしくて分かりづらい。その上、何人もの人物が同じ名前で違った人物であったりするので、余計に分からなくなってくる。
例えば今回の『リチャード三世』にしても、王になる前のリチャードはグロースター公の名で呼ばれ、エドワード四世の二人の王子の名前は皇太子エドワードとヨーク公リチャードであり、またヘンリー六世の殺された王子の名前もエドワードである。リチャードの父の名もヨーク公リチャードであった。
 そのような英国史の知識が乏しくても劇の状況が分かるように、いのうえひでのりの演出は実に親切で、うまい工夫をしている。
 開演してまだ客電が落ちる前に、映像を用いて、状況の背景や人物関係が解説され一応の理解が得られる。
 エドワード四世の王妃エリザベスと彼女の恩恵で成り上がり貴族となった親族一派と、王の兄弟であるクラレンスやリチャード、そしてバッキンガム公など昔からの貴族たちとの確執、対立の原因が図解式に詳しく説明される。
 観客はその予備知識を持って安心して劇の進行に入っていくことが出来る。
 さあ、いよいよ始まりである。
 『リチャード三世』はシェイクスピアの作品の中で唯一、冒頭から主役が登場し、それも長い独白から始まる。
 まず、その衣裳に意表をつかれる思い。これはそのあと登場するその他の貴族に共通するコミカルな驚き。
 (リチャードが王位に就いたときに着て登場する大仰で金ぴかな衣裳は風刺的滑稽さがある)
 リチャードは、小さなハンドマイクを使って、淡々とした声で無表情に独白を語る。
 リチャードの独白は、この後もこのハンドマイクを通して語られるので、彼がハンドマイクを使っているときは独白なのだと理解できる仕組みになっている。
 リチャードの顔半分、左側(観客から見れば右側になる)は、火傷によるケロイドのような赤い痣が一面にある。
 身体は背中に瘤のあるような、ふくらみのゆるいせむし姿、片足が悪く、引きずるような歩き方。
 一見面妖な顔つきのようでもあるが、どこか冷めた感じがする表情をしている。
 この冷めた感じは全体を通して感じられ、ユニークな印象であった。
 いのうえひでのり演出は、全体を通しての印象として、特にその人物造形がコミカルなものであるが、(それは先ほど触れた衣裳に端的に表出されているのだが)、ひとりアン(安田成美)だけがシリアスな印象を通すことで、その他の人物のコミカルさが増幅されているように感じた。
 アンの衣裳は棺の場面では喪服姿で清楚な印象の服装であり、そのほかの場面で、赤い色のドレス着ていても、一見華やかに見えるが、エリザベス王妃(久世星佳)のパンタロン姿の赤い色とは印象が大きく異なる。
 バッキンガム(大森博史)をはじめとする貴族の衣裳は、スウィンギング・ロンドンを表象して、ド派手で、どこかちぐはぐなパッチワークのような衣裳。その衣裳が道化を思わせる。
 彼らそのものが歴史(=リチャード)にもてあそばれた道化ともいえる。衣裳はその表象であろう。
 バッキンガムのもさもさした頭髪は60年代のグループサウンズやヒッピーのような髪型で、その言動も軽薄であり、コミカルな人物になりきっている。
 登場人物のすべてがリチャードに収斂されていくというか、集約されるのだが、その中でリチャードと対峙、対立する三人の女性、マーガレット(銀粉蝶)、エリザベス、ヨーク公爵未亡人(三田和代)がそれぞれに特徴がある。
 怨念の塊のようなマーガレットにはずっこけたおかしみがあり(それは多分に銀粉蝶が持つパーソナリテイの演技力に負っている)、エリザベス王妃にも有閑マダムのようなおかしみ(ごく個人的な印象だが、パトロンであるエドワード王の死によってその立場が危うくなると慌てる姿が思い浮かぶのだ)を感じた。
 これまで見たことがない演出としては、エドワード四世登場での和解の場面(以外にもあるが)で、幼いヨーク公リチャードと王女エリザベス(最初それが誰なのか分からなかった、というか皇太子エドワードと勘違いしていたのだが)が母親のエリザベス王妃と共に登場する。
 リチャードとリッチモンド(川久保拓司)の戦闘の前夜、亡霊が登場する場面も特徴がある。
 リチャードが殺した人物達の亡霊が、「絶望して死ね」と夢に現われる場面はそのままだが、リッチモンドの方は、王女エリザベスと閨を共にしたあとの目覚めになっているのが、とても新鮮でまぶしかった。
 リッチモンドがリチャードを倒した(最後は追い詰めたリチャードを、ピストルを連射して撃ち殺す)後の勝利の場面にも、エリザベス王妃と王女の親子が登場していて、彼の勝利を祝福する。
 最後、リッチモンドのランカスター家とヨーク家の統合の勝利演説は、その姿も声も高まる激しい音楽と照明のハレーションに呑み込まれてフェイドアウトする。
 要所要所で映像を用いてのヴィジュアルな状況説明や人物関係などの図式が映し出されたり、イアン・マッケランの映画『リチャード三世』を髣髴させる場面が映し出されたりして、ヴィヴィッドな感じを強める効果があったと思う。
 シェイクスピアがよくやったアナクロニズムも時に逆用して、バッキンガムが腕時計を見て時間を答えたり、スタンリー卿(榎木孝明)が携帯電話を使ってリッチモンドと連絡を取り合ったり、リチャードが馬の代わりにミニ・モーターバイクに乗って登場する遊びがある。その自由自在な演出が面白い。
 翻訳が三神勲というので意外な気がしていたのだが、プログラムでいのうえひでのりと松岡洋子の対談の記事でその疑問が氷解した。松岡洋子訳を使えば、蜷川幸雄のシェイクスピアの後追いから逃れられないというのがその理由であった。
 蜷川幸雄の、「僕は古田新太にコンプレックスを持っている」という掲載記事も興味深かった。
 2千円のプログラムの値段は抵抗感があるものの、このような貴重な情報もあって出費を惜しむわけにはいかない。
 前半2時間、休憩20分を挟んで全部で3時間半の上演時間。
 S席(1万円)、1階のT列19番とかなり後方の席であるが、ほぼ中央の席であり、細部は見えないにしても全体を俯瞰するにはまずまずの席であった。
 目が離せなくて集中して見ていたためと、メタリックな音楽や、まぶしい光源の照明に頭がくらくらして、そのノイズで見終わったあとはかなり疲労を感じた。
 もともといのうえひでのりの舞台はパワーにあふれているが、演劇には受容者側にもパワーとエネルギーが必要だと痛感した。
 

訳/三神勲、演出/いのうえひでのり、美術/池田ともゆき
1月21日(水)13時30分開演、赤坂ACTシアター、チケット:(S席)10000円、座席:1階T列21番

 

>> 目次へ