観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  Studio Life公演 音楽劇 『夏の夜の夢』               No.2008-007

― 無限(夢幻=ゆめ・まぼろし)の可能性を紡ぎ出す破天荒な面白さー

 Studio Lifeの『夏の夜の夢』は、一昨年の2006年に、場所も同じシアター・サンモールで公演されている。今回はその再演であるが、初演を観ていないため比較はできないが、Studio Lifeにとってシェイクスピア劇は1985年の結成以来、その時が初めての上演であったという。
 舞台は、漆黒の闇の中に豆電球が蛍のように飛び交うところから始まり、妖精パックが登場し、続いて豆の花が登場してくる。そして、妖精の王オーベロンと女王のティターニアが、それぞれ自分のテーマ曲を歌って登場する。
 オーベロンのテーマ曲は「ヤングマン」の曲を思い起させるもので、その最後の方は、

 「おお スターマン 我こそは
 夢と現(うつつ)を 行き交う王者
 それは スターマン 我は行く
 愛の歓び 求め 彷徨う 人に
 幸多かれと 幸多かれと 祈りを捧げる」

 歌の歌詞はマイクロフォンの音量で聞き取りにくい。
 のっけからこのように歌で始まり、この劇がミュージカル仕立てであることを感じさせる。 
 オーベロンとティターニアの衝突の場面が終わって、シーシアス公爵の宮廷の場面となるが、音楽はベートーヴェンの「運命」が鳴り響き、先行きを予兆するかのようである。
 シーシアス公爵の第一声は、なんとハムレットの'To be, or not to be. That is the question'!
 それに続くヒポリタの台詞の初めも同じく'To be, or not to be. That is the question'。そのヒポリタは、鎖の付いたバスケットボール大の白球を手に提げて持っている。
 ヒポリタもシーシアスの衣装もともに白一色なのがとても強い印象を与えるが、その他のアテネの宮廷人たちもみな白一色の衣装である。
 公爵の結婚を祝ってのアテネの職人たちによる『ピラマスとシスビー』の劇中劇は、アテネの職人たちではなく、ボトムたちは出来損ないの落ちこぼれで、クィンスは彼ら落ちこぼれの指導員という設定になっており、彼らが演じる劇は、『ピラマスとシスビー』に名を借りた『ロミオとジュリエット』で、ヴェローナの大公がロミオとジュリエットの死を、両家の争いが元として嘆き、両家を諫める台詞と重ねる。
 劇中劇は、シーシアスやライサンダー、デミートリアスらのヤジも飛ばず、荘重に進行する。
 ボトムが演じる死せるピラマスは、ハムレットがフォーティンブラスの兵士たちに担ぎ上げられて運び去られるのと同じようにして運ばれる。
 ヒポリタは、ピラマスとシスビーの死を現実のように悼み、それまでずっと手にしていたあの白球の鎖を解いて床に置く。ヒポリタはここまで終始、シーシアスに対して心を開くことなく、受け入れていなかったのであるが、その白球を置いた後初めて、シーシアスに手を差し伸べ、彼を受け入れる。
 非常にシンボリックな所作で、静かな中に衝撃が走る。
 このヒポリタは、シーシアスと戦って降伏したアマゾネスの猛々しさはなく、清楚で物静かである。
 シーシアスとヒポリタは、最近ではオーベロンとティターニアの役をダブリングすることが多いのだが、この舞台では別々の俳優によって演じられた。
 この劇団は男性だけからなるので、当然のことながらすべて男優が演じる。
 面白かったのは、ライサンダーとデミートリアスの男役よりハーミアとヘレナを演じる女役の方が大柄で、なかでもハーミア役の役者が一番大きくたくましく、台詞もそのことを考慮して、それに合ったように書き換えられていたことであった。
 最後のカーテンコールの挨拶で、クィンスを演じた藤原啓児が、「メディアやその道の関係者も多く観劇され、シェイクスピアをこれほど観客が楽しんでいるのはこれまで見たことがない」という賛辞をいただいたと感謝していたが、確かに破天荒な面白さがあった。
 観客の8割がたが若い女性で、シェイクスピア劇を見に来たというより、Studio Lifeの俳優を見に来たという感じが強く、歌の場面では手拍子などで大いに乗っていた。
 また、こちらはその空気が読めず笑えなかったが、特に、オーベロンとパックのやりとりの場面では大いに笑っていた。どこまでがアドリブか分からないようなやりとりがあり、それが笑いを受けていたようであった。
 シェイクスピアの『夏の夜の夢』は、無限(夢幻=ゆめ・まぼろし)の可能性があるのを、このStudio Lifeの『夏の夜の夢』を観て改めて思った。

 

訳/松岡和子、上演台本・演出/倉田淳、美術/松野潤
4月29日(火)、シアター・サンモール

 

【余 話】
この劇を観に行く当日、原文を読み返していて、ボトムが夢から覚める場面でふと思いついたことがある。
 オーベロンの台詞に、「俺の姿は見えない」というのがあり、妖精の姿は人間には見えないことになっている。ところがロバの姿に変えられたボトムにはティターニアやその他の妖精たちの姿が見える。今までそんなことは考えてもいなかったのだが、シェイクスピアはこんなところにもしっかりと仕掛けをしていることに気づいた。ボトムに妖精の姿が見えるのは、このロバの姿に変えられた時だけである。
 つまり、ボトムは妖精の世界である異界の存在となることによってはじめて、妖精の姿が見えるのであった。
 『彦一話』の「隠れ蓑」の逆バージョンのようで面白い。
 このことは、僕にとって新しい発見であった。


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