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  彩の国シェイクスピア・シリーズ No.18 『オセロ』      No. 2007-025
 

開幕の暗転の中で鳴り響く鐘の音は物語の悲劇性を予兆するかのようであり、このドラマの終わりに同じように鳴り響く鐘の音は、「こころ」の虚ろさを悲しみで充たすかのようであり、いつまでも余韻となって脳髄の中で鳴りやまない。振り返ってみれば、この鐘の音がこの物語のすべてを語っているような・・・

蜷川幸雄の舞台は開幕の数分がその劇のすべてを握るという信念で、どちらかといえば大勢の人間が舞台の上で派手な動きを示して人をひきつける演出が多いような気がするが、今回はまったく意表をついたものだった。

薄暗い夜の静寂(しじま)のなか、イアゴーとロダリーゴが舞台前面のやや上手よりの方で、しばらくの間沈黙した状態で蹲っている。やがて語りだす二人の会話は、人目をはばかるひそひそ声。その声を聞き取ろうとして観客は二人の会話に全神経を集中させられる。二人が話し込んでいる場所は、二人が今話題にしているデズデモーナの父親の邸宅の前・・・だから二人は声を潜めて話していたのだと納得させられる。

相変わらず、蜷川幸雄という人のドラマの導入部のうまさに感心させられる。

松岡和子さんが指摘されているデズデモーナとオセロの年の差、「少女と中年」、これが今回の演出の特色として非常にうまく生かされていると思った。

オセロとの年齢差、身分や人種の違いなどすべての負の要素にかまわず、一途に自分を投げ出すデズデモーナは、『ロミオとジュリエット』のジュリエットの純真さと大胆さとに変わらない。このように打算のない直情的行動をとるデズデモーナの年齢はジュリエットと同じくらいがふさわしい。蒼井優は、そのようなデズデモーナにぴったりであったと思う。

タイトルロールを演じる吉田鋼太郎の嫉妬(というより妄想)に狂った姿、痙攣を起こして倒れこむ演技などはさすがにうまいと思った。ほんとうに癲癇を起こして痙攣しているような迫力があった。

吉田鋼太郎の演技が外に噴出すマグマなら、高橋洋のイアゴーは内に秘めた内面的な青白い炎だろう。その鬱屈が「叫び」となってほとばしる。イアゴーにオセロがどんどん追い込まれていくプロセスが見もの。

その心理的な動きが、蜷川幸雄の常套手段ともいうべき階段の舞台に架設された階段を駆け昇ったりすることで表出される。今回の階段は、左右両脇や舞台中央奥に3箇所取り付けるなど、場面ごとに使い分けされているのも特徴である。

オセロが、失くしたハンカチのことでデズデモーナを詰問していくとき、それを傍らで見ているエミリア(馬渕英俚可)の目の動きや、デズデモーナが窮地に追い詰められているのを正視できずに背を向けてしまうその演技を見ていて、悔悟の気持の心理的表現がよく表れていると感じた。

上演時間は途中15分の休憩時間を挟んで、4時間。前半部は少し眠気に襲われた。

 

(訳/松岡和子、演出/蜷川幸雄、美術/中越司、10月13日(土)、
彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて)


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