観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  関東学院大学・シェイクスピア英語劇 『ヴェニスの商人』      No.2006-028
 

関東学院大学第55回シェイクスピア英語劇は、その始まりとなった1948年の初演を含めて今回で5回目の上演となる『ヴェニスの商人』でした。ちなみに同大学での最多上演は『夏の夜の夢』の13回で、次が『ロミオとジュリエット』の7回となっています。

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』はぜいたくな作品だと思います。物語の展開としては、よく知られていますように、三つの主題があります。「箱選び」、「人肉裁判」、そして「指輪騒動」がそれです。演出を担当されている瀬沼達也氏は、小田島雄志先生のことばを借りてシェイクスピアの「ごった煮」の世界をどれも切り捨てがたいと記しながらも、その思い入れを三つのテーマに集約しています。

一つは、「愛憎と赦し・復讐」、二つ目が「人間のこころの成長」、そして三つ目が「老人の生き方」として取り上げています。さらに瀬沼氏はそれら三つのテーマに加えて、今年9月に不慮の交通事故で亡くなられた当英語劇の照明責任者であった影山睦さんを追悼して「いのちの尊さ」という新たな発見を訴えています。

私は瀬沼氏のテーマの捉え方に、シェイクスピアを通して表現される、人間性への優しさの視線を感じます。それが最も強調されて演出されたのが、「人肉裁判」での場面であろうと思います。裁判に敗れたシャイロックが法廷から退出しようとするときロレンゾーたちに足蹴にされ倒されますが、アントーニオはそれを制止し、「キリスト教徒なんだから」と言って倒れたシャイロックが起き上がるのに手を差し伸べます。シャイロックがキリスト教徒に改宗したことで、すべてが赦されています。

キリスト教徒であるアントーニオにとっては、ユダヤ教を信じるシャイロックは‘misbeliever’であって、‘unbeliever’ではありません。アントーニオにとってシャイロックは間違ったものを信仰していたのを正したことによってすでに許されるべき存在となっているのです。私はそこに瀬沼氏の第一のテーマである「愛憎と赦し」の見事な具象化を汲み取ることができます。シェイクスピアの原文にはアントーニオの「キリスト教徒なんだから」というような台詞はもちろんありませんが、その台詞の挿入に瀬沼氏の優しさを感じます。

この劇を見ながら私はふと考えさせられてしまったことがあります。それは「素」の世界ともいうべき感覚で、原初的な感情ともいうべきものですが、そもそもアントーニオの、たとえ戯れにも自分の肉を担保に賭けるという行為そのものが許されないことではないか、それはアントーニオのシャイロックへの驕りの気持と傲慢さ以外のなにものでもないかと。

二つ目の「人間のこころの成長」は、このドラマ全篇を通じて見ることによって感得されます。

三つ目の「老人の生き方」は、アントーニオとシャイロックの年齢を59歳と設定して瀬沼氏は演出されています。

学生劇という若さの制約上実年齢との乖離はいかんともし難いものがありますが、アントーニオの憂鬱(sadness)の原因がやがて訪れてくる別離の予感というのが、ドラマの最後になって印象的に表現されます。アントーニオはバッサーニオへの友情を通して、若者へのよき理解者と思われるのですが、その若者たちが結婚という形でそれぞれアントーニオの元から、気持の上で遠ざかっていくのが感じられます。独りだけ舞台に残されるアントーニオの姿に、その淋しさがにじみ出てきます。

最後に出演者の熱演ですが、私の個人的感想として、台詞力(発声を含めての英語力)ではポーシャ役のネズ・サチエさん、演技力ではラーンスロットを演じたミツイ・ジュンペイ君がすばらしかったと思います。モロッコ王のナイトウ・ショータ君、アラゴン王のホソカイ・コータ君も舞台を大いに盛り上げて楽しませてくれました。

そして何よりすばらしかったのが、学生さんたちをはじめとした観客の皆さんと舞台の出演者との一体となった「場」の共有感でした。この最後の一体感となった躍動の感動にあふれて劇場を後にすることができました。

(演出/瀬沼達也、12月9日(土)、神奈川県民共済みらいホールにて観劇)

 

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