観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  劇団AUN・第13回公演『終わりよければすべてよし』     No.2006-025
 

シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』は読んで後味のよくないというか、すっきりとしない作品の一つである。作られた時期や最初に上演された時期のはっきりしない作品でもあるが、どちらかというと後期の問題劇のジャンルに数えられている。作れた時期が同じ問題劇として扱われている『尺には尺を』の前後として考えられているだけでなく、筋立てとしてのベッド・トリックは『尺には尺を』そのままだし、登場人物の名前にエスカラスという同じ名前が出てくる(『終わりよければすべてよし』では名前だけの登場だが)のも近似性を感じさせる。

後味がよくない、すっきりとしない理由として、主要な登場人物が好きになれないということも大きな要因に思われる。この物語のヒーローとヒロインをあげるとすればやはりロシリオン伯爵のバートラムと彼を慕うヘレナということになるだろうが、その二人がどうも好きになれない。特にバートラムには誠実さがなく人間として好きになれない。ヘレナがどうしてこんな男を好きなのかはがゆいくらいである。しかし女心というのは物語の中だけでなく、現実の世界でも恋愛感情においては不思議さを超えたものがあるのも間違いない。

反面、ほら吹きで、臆病で、良心のかけらもみえないペーローレスに人間味を感じる。フォルスタッフを思わせるところがあって憎めないところがある。そのためか上演史においてはペーローレスの役が人気を博していて18世紀後半以後はペーローレス中心に書き換えられた劇が舞台にのぼるようになったということである。

その上演史を読んでいると、18世紀にはこの劇を演じた俳優が舞台で失神したり、風邪をこじらせて死亡したりして、あまり縁起がよくないというようなことが書いてあったが、劇団AUNのプログラムに、吉田鋼太郎と客演の横田栄司の対談が掲載されていて、吉田鋼太郎が、「学生時代に一度挑戦してみたことがあるのね。演出とバートラム。分かんなかったもん全然。それで、分かったふりして続けてたら、ちょっとずつズレが生じてきて・・・。無理しちゃったんだね、本番直前にペーローレス役者が大怪我して公演中止になった」と言っているのがあって、とても興味深かった。

その吉田鋼太郎は今回演出とフランス王の役を演じている。

演出で興味を引いたのはヘレナ(千賀由紀子)のシンボリックな表象。冒頭では赤十字マークのついた白い箱を首からぶら下げた野戦病院の看護婦を思わせる姿、そして途中休憩前後の巡礼へ旅立つ旅姿。最後はバートラム(長谷川祐之)の愛を得て円満な終焉を迎えて暗転した後、ヘレナはうつ伏せでうずくまるような姿で倒れ付している。この最後の姿がとても印象的であり、意味深く感じさせるものがあった。バートラムにめでたく受け入れられたのはヘレナの夢であった・・・ヘレナは物語の途中で語られるように巡礼の地で本当に死んでしまって、そのうつぶせた姿は行き倒れになったことを表象している・・・というふうに思われたのだった。

そのように解釈するほうが順当な気がする。あれだけ嫌っていたヘレナをバートラムが本気で受け入れるとはどうしても信じられない。ヘレナの願望が夢となって表出されたと捉えるほうが自然な気がする。

バートラムがヘレナを妻として受けいれるエンデイングがこの劇をしっくり感じさせない最大の要因であると思うのだが、このようにヘレナの夢として終わらせれば受け入れやすくなる。

長谷川祐之のバートラムは、不誠実で人間として尊敬できない、まったく好きになれない人物として演じられていて、嫌いだけれども、そこのところがよくできていたと思う。

ヘレナとダイアナ(根岸つかさ)のベッド・トリックは、『尺には尺を』のイザベラとマリアナの関係と類似するが、大きな違いはイザベラが公爵代理のアンジェロの求愛を逃れて本来妻となるべきマリアナと入れ替わるのに対し、『終わりよければすべてよし』では本来の妻であるヘレナ自身がそのベッド・トリックを考案して自分がベッドの相手を務めるように仕組む。ヘレナほその点において、バートラムの愛を得るために最初から積極的である。

愛するバートラムの後を追うためにフランス王(吉田鋼太郎)の病気を治すということを思いつき、さらには病気を治したあかつきには望みをかなえてもらう約束で、バートラムをその結婚相手として選ぶことなどはその典型的な例だろう。

しかしいやいや結婚させられたバートラムはヘレナとの床入りをすることなく、「この世に妻があるかぎり、私はフランスにはなに一つもたぬ」という書置きを残して戦場へと逃げ去っていく。ヘレナはそのことを知って身を引くために巡礼の旅に出るのだが、その巡礼の先、フローレンスでバートラムがダイアナに求愛しているのを聞いて、ベッド・トリックを実行する。ヘレナはバートラムを決してあきらめてしまったのではなく、このベッド・トリックでバートラムの約束、「おまえが私の指から決して抜けるはずのない指輪を手に入れ、おまえの胎から私を父親とする子供を生んでみせるときがくれば、私を夫と呼ぶがいい」ということを実現させる。

ヘレナの人物像としてのもう一つの特徴は、同年代の若者からの愛を受けることは少なく、むしろフランス王やラフュー卿(牛尾穂積)やバートラムの母ロシリオン伯爵夫人(沢海陽子)などから敬愛の目を持って見られる。そのヘレナの賢明さ、知性がむしろ同年代の若者たちを愛情の感覚から遠ざけるようだ。ヘレナとペーローレス(横田栄司)との処女性についての会話などは、頭の回転の速さだけでなく、並でない気の強さ、芯の強さを感じさせ、同年輩の若者にはかわいくないかもしれない。

この舞台での中心はヘレナに置かれているように思われるが、横田栄司のペーローレスの奮闘も上演史で中心人物をしめてきたように、ここでも相当に重要な役割を演じており、それを強調するかのように衣装は赤の軍服で一方のバートラムの白い衣装とコントラストをなしていている。

ユニークだったのは、ロシリオン伯爵夫人の館の道化役ラヴァッチ(岩倉弘樹)。ボロをまとい、顔は真っ白に塗っており、シェイクスピアの他の作品には見られないニヒルなあくの強さを漂わせていた。

吉田鋼太郎の演出は、とらえどころのないようなこの作品を、一つの解釈のあり方、見方を導いてくれたという点では非常に貴重なものであった。

今年6月には、遠藤栄蔵主催の板橋演劇センターでもこの『終わりよければすべてよし』が上演されているが、これを見ていれば両方比較してもっと興味が増していたかもしれない。前者を見逃したのが今になって口惜しい。

途中休憩10分を挟んで、2時間30分の上演時間があっという間に過ぎたような気がする。

(訳/小田島雄志、演出/吉田鋼太郎、11月10日(金)夜、恵比寿・エコー劇場にて観劇)

 

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