観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  幹の会+リリック・プロデユース公演『オセロ』      No. 2006-023
 

演出をした平幹二朗は、イアーゴのルーツをスペインと読んで、彼の内に秘めた熱情をジプシーのそれとして映し出し、彼にフラメンコを躍らせることでその激情を表象させる。イアーゴの屈折した情念の発祥は母親にあるように思われる。

舞台は、影絵のようにして女が男に弄ばれている情景で始まる。

イアーゴはその男を女から引き離し、殴り倒す。女は彼の母親のように感じられる。その情景は実は彼の幼い時の記憶であり、男を殴り倒すのはその記憶に触発された彼の妄想である、と思われる。母への思慕と母の行為に対する嫌悪感が、彼をして女を信じさせないようにした。彼の、妻エミリアに対する態度にはそのような女への不信と嫌悪を感じさせるものがある。イアーゴはエミリアを妻として愛したことはおそらく一度もない。

イアーゴは幼児の時には実行できなかった、男を母親から引き離して殴り倒すという行為を妄想し、フラメンコを踊る。それは熱情的というより怨念を秘めたもののようである。

イアーゴをこのように読み取ることで、イアーゴのオセロに対する行為、仕打ちも不条理性でなくなってくる。

イアーゴのオセロに対する憎しみは単純なところから発してくる。自分がオセロの副官になれると信じて疑わなかったにもかかわらず、オセロは彼の期待に反して文官のキャシオを選んだことが彼のオセロに対する憎しみの始まりである。

構想、着想としての面白さはあるものの、劇全体の統一性に欠けており、継ぎ接ぎ的なバラバラな印象を受けた。構想、着想の奇抜さに溺れてしまった演出、と言ってしまえば酷であろうか。

冒頭のイアーゴのフラメンコが強調されてしまって、ロダリーゴとのやりとりが希薄化されているだけでなく、イアーゴがロダリーゴを宥めているというより、彼が副官になれなかったことの不満をぶちまけている方が強調されていて、イアーゴがロダリーゴに宥められているような印象さえ受けた。ロダリーゴはこの劇全体を通してみても頼りない存在というよりは気丈な感じのほうが強く出ていて、デズデモーナへの横恋慕でイアーゴに依存しているという感じがほとんどない。

平幹二朗が演じるオセロにしてもデズデモーナを演じる三田和代の台詞や演技を単独で見ればうまいと思うのだが、全体を通してみれば求心力に欠けている。その原因は平岳大のイアーゴの設定にあるような気がする。

人物造形としての違和感は、淵野俊太のロダリーゴのみならず、坂本長利のブラバンショーにも感じた。西山水木のエミリアも特徴のない存在でしかなく、ビアンカの榛名由梨などは元宝塚のトップスターとしての魅力もない、キモイ感じ(キモイとは娘の七保の感想)。

これまで幹の会+リリック・プロデユース公演での平幹二朗のシェイクスピア劇をいくたびか観てきたが、今回は残念ながら外れであった。最初の1幕の大半は寝てしまっていた。

(訳/小田島雄志、演出/平幹二朗、美術/堀尾幸男、11月3日(金)、東京グローブ座にて七保と観劇)

 

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