観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  りゅうとぴあ能楽堂シェイクスピア『オセロ』      No. 2006-021
 

構成は栗田芳宏の常套手段ともいえる円環構造で、舞台の終わりを始めと同じような場面で閉じる。

演出の栗田芳宏は、この劇を「呪いの儀式」として解釈し、呪物であるハンカチに込められた呪いが嫉妬という形で悲劇を生み出す(8月16日、朝日新聞の夕刊のコラムから)というようにとらえている。そこでこの円環構造の舞台は、儀式の様式で始まり、儀式の様式で幕を閉じる。

始めは、デズデモーナの母に仕えていたという小間使いのバーバリーの悪霊が、仮面をつけてデズデモーナとオセロを導く。オセロが、デズデモーナが手にしていた白いシーツをおもむろにそれを押し頂いて舞台後方へと下がっていく。それは新婚初夜のベッドを表象する。バーバリーが手にした白い短剣に巻かれたハンカチをオセロが取る。

そしてすべてが終わってしまった後、死者となったデズデモーナとオセロは、仮面を取り去ったバーバリーに導かれて、舞台始めの所作と同じことを繰り返す。この構成が与える効果は、それまで舞台で起こってきたことを観るものの脳裏に反芻作用を引き起こすということだろう。そこで観劇者は静かに余韻にひたることで、ある種のカタルシスを覚える。

今回のこの『オセロ』を観てまず感じたことは、この劇が「嫉妬」の劇というより「妄想」が引き起こした悲劇である、ということであった。栗田芳宏は松岡和子の訳を使用しているが、ちくま文庫で解説を書いている中野春夫によれば、<シェイクスピア時代の「嫉妬」は今日の「ジェラシー」や「やきもち」とはかなり意味が異なっていた。シェイクスピア劇に登場する“jealousy”とは、基本的に「不信、疑念」を意味し、とりわけ妻の貞節を確信できない既婚男性の恐怖や不安を表すものとして使われた。極端に言うと、シェイクスピア劇の「嫉妬」は「妄想」と言い換えると分かりやすい>とあり、この解釈でオセロの嫉妬に対する疑問が氷解する。

谷田歩が演じるオセロは嫉妬の狂気というより、まさにこの妄想の虜となっている姿を表現していた。しかしその過剰な演技からは感動を感じさせるものがなかった。演技が演技でしかなく、そこにたとえばデズデモーナへの憐憫の悲しみを引き起こすような、心に響くものがなかった。ハムレットの台詞の、過剰な演技への諌めを思い出さずにはいられなかった。

デズデモーナを演じた市川笑也は、前回このシリーズで演じたマクベス夫人に較べたら、シェイクスピアを演じるのが2度目ということもあってか、ずいぶんよかったと思う。これも松岡和子の設定で、15歳の少女(?)として演じられているが、想定年齢は別にしてその可憐さは感じられた。

キャステイングの面白さ、意外性としては植本潤のイアーゴ役。くりくり頭がちょっと茶坊主的なところを思わせた。

ロダリーゴの河内大和も狂言役者の次郎冠者的な面白みがあった。

市川喜之助のキャシオーは、着流しのスタイルでどちらかといえばゲイボーイぽい役。

演技でうまいと思ったのは、ヴェニスの公爵と前任のキプロス総督モンターノを演じた栗田芳宏。

休憩を挟んで3時間10分という長時間の上演。前半部は何度も睡魔に襲われた。

(訳/松岡和子、演出・構成/栗田芳宏、8月29日(火)、東中野梅若能楽学院会館にて観劇)


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