観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  劇団「木花」(もっか)公演『ロミオとジュリエット』      No. 2006-019
 

〜 和解のない民俗的性(さが)、「恨」(はん)のドラマに仕立てて 

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を、韓国の王朝時代に置き換え、韓国の民族的「性」(さが)ともいうべき「恨」(はん)を抉り出す。極めて韓国的というべきであるのか、それとも演出家呉泰錫(オ・テソク)の独創であるのか。結論を先急ぎしているようであるが、このことは、実は幕切れのモンタギュー、キャピュレット両家がロミオとジュリエットの二人の死を前にして和解するどころか、太守の和解の勧告にもかかわらず、両家にとっての「恥」として、両家が絶滅するまで死闘を始めることから感じさせられることである。この死闘は雷鳴とスモークの中でスローモーションの動きで繰り広げられる。

舞台中央に、一つの身体に二つの頭を持った竜(あるいはヘビ)が身を捩じらせて睨みあう姿勢をした絵が描かれた衝立がある。開演と共にスモークが立ちこめて、その衝立は二つの竜が戦い合うシルエットを映し出し、下手へと引き下げられていく。そして、激しい雷鳴とスモークの中で、甲冑に見立てた腕抜きを身につけた若者たちが、戦いを表象する舞踊を始める。緩慢に見える所作ではあるが、全身に筋肉の緊張を感じる動きである。緑色の衣裳がモンタギュー家側の若者で、褐色の衣裳がキャピュレット側。雷鳴とスモークは両家の戦いの表象で、これが最後の場面でも繰り返される。

伝統的な韓国舞踊とパンソリを交えながら、物語はシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』にほぼ忠実に従って進行していくので、途中字幕が途切れていても内容の理解には困らない。台詞は極端に凝縮され、上演時間も1時間半と長くはないが、中身は非常に濃い。

それは演出家オ・テソクの言葉を借りれば、「省略」と「飛躍」の効果であろう。

「省略」とは、時間と空間の連続性より、場面と場面の効果的つなぎにより、観客に想像力を喚起させるものである。見ていてこの場面のつなぎが有機的であり、非連続の中に連続性を感じさせるものがあった。

「飛躍」とはオ・テソクによれば、シンボリックな表象によって得られるものである。それは解説によらなくても分かるものもあるが、民族的固有の意味を表象するものはやはり解説をみてはじめて理解できる。

その一つが、ロミオが最初に登場してくるときに頭に被ってくる「箕」(み)である。韓国では昔、おねしょをした子どもが罰として箕をかぶらされて、村の家々をまわらされたということである。ロミオはこの箕を被ることで初恋の人玉子に振られた恥ずかしさを表現しているという。

明らかに分かるような表象は、ジュリエットがロミオを迎える初夜のベッドに白い布を舞台一面に広げる場面と、ロミオとの再会を期して服薬するときのベッドの色が真っ赤な布。

斬新な表象としては、原作ではテイーボルトとマキューシオが私闘を繰り広げるのは広場の噴水の傍であるが、オ・テソクは代わりにバスタブを持ち出し、それによって子宮を表象し、「生まれ変わっていく場所をイメージ」させ、マキューシオの死後はそれが棺、霊柩車となって彼を運んでいく役目をする。

出演者では、ジュリエットのキム・ムンジョンが清楚でお茶目な感じ、原作の年齢である14歳を前にした少女の幼さを髣髴させて印象深い。マキューシオのイ・ドヒョン、ロレンス神父のチョン・ジンガク、乳母のチョ・ウナなども印象に残る演技であった。

(作・演出/呉泰錫、7月16日(日)、シアターXにて観劇)


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