観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  子供のためのシェイクスピア『リチャード三世』      No.2006-018
 

シェイクスピアの歴史劇は歴史の背景を知っていないと分かりづらいし、同じ名前で違う人物であったりするので読んでいてもなかなか頭に入ってこない。はじめのうちは、人物像がこんがらがって何がなんだかわからなくなることがしばしばだった。『リチャード三世』も、リチャードの冒頭の印象的な台詞も『ヘンリー六世』三部作を読んでいるのといないのとではその理解も随分と違ってくる。

それを、今回の子供のためのシェイクスピア・カンパニーの演出では冒頭の部分でテユークスベリーの戦いの場面を挿入し、ヨーク側がランカスター側を破って、王妃マーガレットは捕虜となり、皇太子エドワードのヨーク三兄弟(エドワード、ジョージ、リチャード)による殺害と、ヘンリー六世がロンドン塔でリチャードに殺害される場面を加えているので理解しやすくなっていると思う。

リチャードが生まれながらにして歯が生えていたこと、ヘンリー六世によってリッチモンド(後のヘンリー七世)がイングランドの国王になることの予言なども織り込まれている。

リチャードは、せむしでもびっこを引いている姿でもなく、左手の奇形を人形で代替している。今回はめずらしく、というか初めて、脚本・演出を担当している山崎清介がタイトルロールのリチャード三世を演じている。

限られた出演者で膨大な登場人物を演じるので、リチャード三世の山崎清介以外は一人二役、三役は当たり前になっているが、今回趣向的に面白かったのは、マーガレットに間宮啓行(他にヘイステイング卿を演じる)が演じ、ヨーク公爵夫人に佐藤誓(エドワード四世、イーリー司教)が演じていたこと。特に佐藤誓のヨーク公爵夫人は早変わりの必要があり、それに二人とも女性ぽさを強調するでもなく衣裳のみでの女性の姿なので、その分面白みとおかしみが強くなっていた。

リッチモンド(伊沢磨,紀が王妃エリザベスとの二役)がリチャードを倒した後、その左手の人形を切り離し、自分の右手に持ち替える。左利きは異端の表象であり、人形を右手に持ち替えることに正当性への復帰を暗示するかのようでもあるが、演出を見る限りでは、リッチモンドがリチャードから左手の表象である人形を取り上げて自らがそれを手にする姿を見て当惑と驚きの表情を見せるスタンリー卿は、むしろそれを制止するかのように見えた。そこにむしろ表象的な予兆を感じた。

シェイクスピアの劇とは関係ないことであるが、歴史の人物像としてはヘンリー七世は嫌いな人物で、むしろリチャード三世の方に親しみを感じる。リチャード三世を悪人に仕立て上げれば上げるほどテユーダー王朝の正当化のための作為的なものを感じざるを得ない。

シェイクスピアの劇においても、国王に上り詰めるまでのリチャードは気配りもよく働いて用意周到であるが、国王なった後は、どこか間の抜けたところがある。その最たるところが、馬一頭のために国をくれてやる最後の台詞である。しかしこの言葉は実際には非常に意味深長である。人の最後において、リチャードのこの言葉を誰が笑えるであろうか。たとえば、膨大な財産をいかにもっていようが、死に臨んでは砂漠での一滴の水の価値もない。

今回は4年ぶりにグローブ座での公演で、久しぶりのグローブ座は入口の雰囲気も違ってはいたが、やはりシェイクスピアはグローブ座に合っているという感じがする。

来年の子供のためのシェイクスピア・カンパニーの公演も、このグローブ座で『夏の夜の夢』が予定されている。今から楽しみである。

(小田島雄志翻訳による、脚本・演出/山崎清介、7月15日(土)、東京グローブ座にて観劇)


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