観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  ASC創立10周年記念公演シリーズ第2弾 『尺には尺を』      No.2006-012
 

シェイクスピアの『尺には尺を』は考えれば考えるほど不思議な作品である。

そもそも公爵はなぜ急に身を隠す気になったのか。なぜ大権をアンジェロに公爵代理として委ねたのか。その理由を探っていくと、今回のアカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)の『尺には尺を』のコンセプトである、虚像と実像、偽善と性善説に行き当たってくる。

公爵にその大権を委ねられたアンジェロがまず実行するのは、腐敗した社会風俗、規律の失われた無秩序な風潮を正すことであった。そしてそれは彼が新たに定めた法律ではなく、19年間の適用されずに放置されていただけであった。その法律の適用の犠牲になったのがクローデイオであった。クローデイオは結婚の約束を交わしていたジュリエットを、結婚する前に妊娠させたということで死刑にされることになった。オーバーダンの経営する売春宿も閉鎖される。

公爵は、19年前にその地位についてからというもの、社会の活性化のために庶民に自由奔放な、開放政策をとる。民衆は自由を満喫し、公爵の人気もそのために上々。ところが19年間、放埓的になされてきた政治のつけが回ってきて社会の風俗の乱れることはなはだしい。しかし、公爵はこれまでの政策を自ら覆して自分の人気を落としたくない。そこで考えたのが、謹厳にして厳格なアンジェロの性格を利用して、彼にその憎まれ役をやらせようとの思いつき。公爵の計らいはうまく的中し、公爵の留守中、アンジェロは矢継ぎ早にこれまで眠っていた法令を呼び覚まし、実行していく。

と考えれば、以外と疑問の紐がほどけていく。

一見、クローデイオの死刑は過酷な気がするが、アンジェロは法律を忠実に実行しているだけである。そこに情状酌量という恣意性が否定されているだけである。アンジェロの不幸は、クローデイオの救済を頼みに来たイザベラに一目ぼれしたことから始まる。逆に言えばそれはアンジェロとて人の子、美しいものには心を惹かれるということの証明にほかならない。イザベラを欺いてベッドをともにすれば兄の命を助けると約束するが、その約束を反故にしたのは、見方を変えれば、彼自身の過ちによって法律を捻じ曲げてはならないという、自分に都合のいい解釈がそうさせたとも考えられる。アンジェロはもろ実像を露呈しただけ。

一方、ルーシオは修道士に変装した公爵に公爵の悪口を言うが、修道士に変装した公爵はそれを否定する。しかしこのASCの『尺には尺を』の演出では、変装した公爵は、死刑囚のバーナダインからその正体を見抜かれるという趣向が凝らされている。ルーシオの悪口は、あるいは公爵の隠れた痛いところをついているのかもしれない、と思わせる。公爵の偽善性が臭ってくる。

公爵の偽善性に対して皆が疑問を抱き、最後には突き放した態度を取るのが、公爵がイザベラに求婚した時。この演出では、公爵はイザベラにその求婚をきっぱりとはねつけられるだけでなく、全員から一種の軽蔑的なまなざしを向けられ、舞台は硬直する。公爵の虚像が剥ぎ取られ、偽善性が暴かれたとでもいうような瞬間である。

今回の公演は日替わりでキャステイングが入れ替わり、僕が観劇したステージでは、彩乃木崇之が公爵を演じ、さらに当初の予定に代わってアンジェロをも演じるという趣向であった。イザベラも日替わりのトリプル・キャステイングであるが、当日イザベラを演じた日野聡子も、すがすがしい演技と台詞で非常によかったと思う。

銀座みゆき館劇場の公演に先立って上演された横浜山手聖公会聖堂では、ASC創立メンバーの鈴木麻矢の久々の出演と、菊池一浩が出演していたので是非観たかったのだが、都合で見られなかったのが心残りであった。上演時間1時間40分で、テンポのよい展開であった。

(訳/小田島雄志、演出/彩乃木崇之、5月4日(木)マチネ、銀座みゆき館劇場にて観劇)


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