観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登
 
  『タイタス・アンドロニカス』      No.2006-009
 

初演の観劇日記を見直してみると、その沸騰するエネルギーに圧倒された印象が記されている。

今回の公演を観るまでは観劇日記の見直しはしていないのだが、前回とは少し異なった印象を感じた気がした。前回の印象としては吉田鋼太郎のタイタスと麻美れいのタモーラの激烈な対立が記憶に刻まれていて、エンデイングの小ルーシアスの悲痛な叫び声がすべてを集約した感じであった。その前回の印象が今回は微妙に異なる。

まず。

今回は、前回のようなほとばしる沸騰する激しさが抑制されているような気がした。否、台詞の激する雄叫びは前回以上かもしれない。その印象が異なるのは、前回が初演ということもあって沸騰するエネルギーが、いうなれば荒削りなままに露呈されていたせいかもしれない。今回はそれが深化されて内面的となっている、ともいえる。

次に、前回に較べてタイタスの弟で護民官のマーカスの存在が強く感じたのも今回の印象が異なる理由の一つ。前回は萩原流行が演じていたが、今回は壌晴彦にキャステイングが変っている。壌晴彦の言葉にあるように、彼の演じるマーカスは『ハムレット』のホレイショーのように、観客に物語を伝える報告者としての役割が強く出ている。タイタスに変らぬ存在感はハムレットにおけるホレイショーとの関係にも相当する。

中心人物の一人でキャステイングが異なるのは、エアロンが岡本健一から小栗旬に変ったこと。タイタスの凱旋の戦利品として引き連れて来られたエアロンは、舞台の片隅で無言のまま事の成り行きを見守っているだけだが、その目の表情を追っていると、たえず冷ややかに動いている。小栗旬のエアロンは台詞以上に目がすべてを語っている、ということでその目の動きに目が離せない。ローマの貴族たちの全体的に白い衣裳に対し、彼だけが赤い色の衣裳であるのも象徴的である。

原作にはない最後のシーン、小ルーシアスがエアロンの赤ん坊を抱いての悲痛な泣き叫びの声の印象について。前回の観劇日記を読みなおしてみると、

<小ルーシアスの悲痛の叫びは、無限大の解釈の可能性があるが、直訳的な解釈を許さない厳しさがある。赤ん坊との関連性で解釈すれば、「我々は泣きながらこの世にやってきた」「生れ落ちてなくのはな、この阿呆の桧舞台に引き出されたのが悲しいからだ」というリアの台詞も思い出される。戦争の犠牲や、親のエゴとも解釈される。>と書いてある。

今回のプログラムで蜷川幸雄へのインタビューを読んでみると、この場面において彼は「その表現を通して、復讐の連鎖を断ち切りたいという思いと希望を発見したいと思います」と語っているのだが、今回、この小ルーシアスの叫びが、むしろその復讐の連鎖を断ち切れない悲痛の嘆きに聞こえてならなかったのだが、どうであろうか。

それは現在という時代的背景において感じられる印象であるのだが、現実はますます悲痛にならざるを得ない悲しみをかかえている。その意味では、今回はむしろ<無限大の可能性>というより、より限定された印象を感じさせられた、ともいえる。

英国のストラットフォード・アポン・エイボンで、今年シェイクスピアの全作品が上演される中、そのうちの一つとして6月に招待公演が決まっているが、英国での反応もまた楽しみである。

(訳/松岡和子、演出/蜷川幸雄、美術/中越司、4月23日(日)
彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて観劇)


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