『じゃじゃ馬馴らし』は原文を読むかぎりにおいては疑問の残る作品であり、そのために多様な解釈の演出が可能であるともいえる。
いわく、カテリーナはなぜ口やかましい女となったのか、ペトルーキオに飼い馴らされて本当におとなしくなったのか、従順になったとしたら、それはいつの時点なのか。カテリーナはペトルーキオから暴力的な扱いを受けて本当に心から従うようになれるのか、などなどの疑問が次々とわいてくる。
そもそも、序幕において鋳掛屋スライが領主の館に連れて行かれ、そこで役者たちの芝居を見ることになる、その芝居がこの『じゃじゃ馬馴らし』であるが、それが劇中劇をそのまま閉じてしまうことによって、中途半端なフラストレーションを感じさせる。
そこで遠藤栄蔵演出の『じゃじゃ馬馴らし』は、この外枠の鋳掛屋スライの場面を取り外し、すっきりさせた構造を取ることによって、ファルス(笑劇)を喜劇へと純化させることによって、明快な解釈を施している。
ここで演じられるカテリーナは、じゃじゃ馬というより、むしろいじめを受けてきた被害者のような印象さえ受ける。妹のビアンカだけが父親に猫かわいがりに可愛がられ、カテリーナは無視される。そのため鬱屈した気持が妹へ暴力的振る舞いに及び、ますます父親との関係が疎遠になっていく。周りの人間までがそんなカテリーナをじゃじゃ馬娘として敬遠し、結婚も遠のく。そのようなカテリーナに救いの手を差し伸べたのがペトルーキオ。カテリーナははじめはペトルーキオに反発するが、結婚を申し込まれたことに、心の奥では自分で気付いていない喜びの気持が隠されている。それは結婚式の日にペトルーキオがやってこないことへの失望と怒りに現れている。本当に期待していなかったのであれば、失望はないはずである。
ペトルーキオのカテリーナに対する態度も、それほど暴力的には感じられない。むしろカテリーナに対する愛情の方がにじみ出ているといえる。例の帽子屋と仕立屋の場面ではペトルーキオはいちいち文句をつけては引き取らせて持って帰らせるが、その帽子とガウンは、パデユアの父親の元に出かけるときカテリーナが身につけている演出をしている。カテリーナはその帽子やガウンを一目見たときから気にいっている。ペトルーキオに愛情や関心がなければカテリーナの衣裳や帽子の好みなどに気が働くことはないであろう。そのことを考えても、ペトルーキオのカテリーナに対する愛情を感じ取ることができる。
それではカテリーナがペトルーキオの理不尽な言葉や行動に従うことを決心したのはいつのことであろうか。私は、ペトルーキオがカテリーナを連れてパデユアに出かけようとするとき、実際とは異なる時間を言ってカテリーナに反発させるが、最後は、カテリーナはパデユアに戻りたいばっかりにペトルーキオに追随して調子を合わせる、このときが一つのきっかけだと思っている。遠藤演出ではカテリーナが時間について調子を合わせる場面がカットされているので、そのような見方をするきっかけがない。
パデユアへの途中、太陽を星と言う場面でカテリーナはペトルーキオの言うことが絶対であるということを宣言する。カテリーナのペトルーキオへの服従はこの時点で完成されたといえるが、実際にはここでペトルーキオとカテリーナの立場が逆転したともいえる。すべてあなたのおっしゃる通りです、といわれればその先がもうなくなる。カテリーナの立場が強くなった時点であるとも言える。
そのことをはっきり感じるのは、カテリーナが未亡人とビアンカに向かって夫に対して従順であるべきことを説くときに表れる。妻が夫に対して従順にすべきなのは、夫が「身を粉にして、海に陸に働き続けているのだから・・・」という台詞の場面では、二人の女性に向かってではなく、ペトルーキオに向かって語る。つまり、夫が夫たる義務を果たす限りにおいては妻は従順となるのだと、念押しをしているのである。ペトルーキオはカテリーナのこの宣言で自分の言質をとられた形になっている。
原文の持つ曖昧性、カテリーナは本当に飼い馴らされたのか、という疑問はここでは氷解する。
劇団の代表者である演出家の遠藤栄蔵は、これまで25年間にわたってシェイクスピア作品を18本、合計53回も演出してきており、それだけやっていると、シェイクスピアのいろんなことがわかってくる、と演出家の一問一答で答えているが、この『じゃじゃ馬馴らし』は、彼の解釈が明快に伝わってくる演出であった。
演技の面では、老練の遠藤栄蔵がペトルーキオを演じたのに対し、カテリーナ役の小林美枝は若いだけに経験も浅く、二人の丁々発止の場面には釣り合いが取れていないという心惜しいところがあるが、その頑張っている姿が逆に、じっといじめに耐えてきたという可憐ないじましさを感じさせる演技であった。ちょっと違った印象のカテリーナという点では新鮮な感じを持った。
妹役のビアンカを演じる角田彩子は、芯の強い感じを与え、むしろカテリーナよりしたたかさを持っているという感じが出ていた。
トラーニオやグルーミオなど召使を男優でなく、女優で演じさせたのも一つの試みであった。板橋演劇センターの中ではベテランともいえる酒井恵美子のトラーニオは、さすがに貫禄を示して違和感なく演じていた。グルーミオの東初穂も、楽しそうに演じていたのが好印象。
大きな身体をした客演の吉川湖のビオンデロも、ほほえましい道化ぶり。
演技、台詞で抜きん出ていたのは、なんといっても、グレミオを演じた俳優座から客演している神山寛。彼の存在で舞台が引き締まって見えた。
雑司が谷シェイクスピアの会の仲間とともに、昨年一年をかけて読んできた作品であるだけに、見ていて興味の尽きない演出、演技であった。
(訳/小田島雄志、演出/遠藤栄蔵、1月28日(土)、板橋区立文化会館小ホールにて観劇)
|