観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登2005
 
  演劇集団円公演 『マクベス』       2005-004
 

 金田明夫のマクベスの力演(熱演といわず、あえてリキエンと言いたい)だけが印象的で、僕にとっては全体としては希薄な感じしか残らなかった。斬新ともいえる試みは随所にある、とは思う。たとえば、開幕当初のストップモーションによる戦場の殺戮の風景。二階式に仕切られた舞台の上部に、3人の魔女。その台詞は、全体の訳を松岡和子の訳を使用しているといいながらも、「いいはひどい」がなぜか「きれいは汚い」(福田恆存訳)に置き換えられている。もっともこの舞台の演出家平光琢也は、パンフレットに「僕の‘きれいで汚い’」ということで口上を述べていて、彼の演出の底流にあるものが、「きれいは汚い」ということでそういうことになっているのだろう。言いたいのはそんなことではなく、その3人の魔女の衣裳。純白ともいっていい、まぶしいくらいの白い衣裳で「きれい」。魔女は「きれい」で汚いのだった。きれいは汚いのモチーフを象徴するかのような、想像を反転する魔女のイメージ。

 ダンシネンのマクベスの城での最後の戦いの場面では、舞台に、亡くなったばかりのマクベス夫人が両手を胸の前に組み合わせ、寝台に静かに仰向けに横たわっている。その寝台にマクベスは横がけに腰掛けて、マクベス夫人のなきがらの手をとってずっとうつむいたままである。敵がそこまで押し寄せてきてはじめてマクベスは戦う。マクダフをも一度は追い詰めるが、止めを刺すのをためらって逃してやる。しかしマクダフが月足らずで母の腹を破って出てきたと言ったときには絶望的になる。そしてその時。死んで横たわっているはずのマクベス夫人がむっくりと上半身を起こして片手でマクベスを手招きする。マクベスは手を差し伸べようとするが、その一瞬の隙にマクダフが全身でマクベスに襲い掛かって仕留める。そしてすべてが終わって敵も去ってしまった後、静寂の中で、死んだマクベスが最後の力をふりしぼって、マクベス夫人の寝台まで近づこうとするが、力尽きて途中で果てて舞台は終わる。

 想像を反転するイメージという言葉を使ったが、幻想ということでは、それをよく使っている。マクベスの戦勝を祝う席上で、王ダンカンは長男マルカムをカンバーランド公とし、正式な国王の跡継ぎとする。そのことで、魔女の「やがて国王になられるお方」という予言の障害となることから、マクベスは幻想の中でその二人を殺害するイメージを舞台上で体現する。ダンカン殺害の時に見る幻の短剣や、祝宴の席上でのバンクオーの幻は一切舞台には現われない。バンクオーの亡霊が舞台に現われないこと自体が問題なのではなく、マクベスの突然の狂気に納得性がないのは、自分の座るべき席にバンクオーが座っているという設定がとばされているので、マクベスの発作が唐突な感じがしてならない。

 台詞のカットで残念、というより舞台効果が薄れているのは、マクダフの城で、いなくなった夫の話をする妻が子どもと交わす台詞を省いていることや、イングランドに逃れてきたマクダフの真意を疑うマルカムが、はじめ暴君として自分を偽るが、その台詞をまったくカットしているので、この場面の緊迫感が希薄化して感じられた。

 台詞のカットは意図されていると思うが、要所要所で、台詞のカットで気にかかるものがあった。途中15分の休憩を挟んで全体で2時間15分の上演時間であるから、時間上の問題でのカットとは思えないだけに、その意図が危ぶまれる。

 最初にマクベスの金田明夫の力演のみが印象的だったと書いたが、全体としてのシナジーが感じられなかったことがその一番の要因だと思う。

 マクベス夫人の三沢明美も、全体的には淡白にしか感じられない。門番の佐藤せつじも、がきっぽさを感じて不満だった。マルカム役の渡辺穣の髪型、衣裳、台詞に最後まで違和感を感じた。

 登場人物全体が、金田明夫という俳優から遠心的に拡散しているようで、集中力を感じない舞台であった。


(訳/松岡和子、演出/平光琢也、美術/加藤ちか、7月30日(土)、紀伊国屋ホールにて観劇)

 

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