観劇日記 あーでんの森散歩道 高木登2005
 
  劇団AUN第10回公演 『尺には尺を』      No. 2005-003
 

〜イザベラは公爵の求愛を受け入れたか?!〜 

『尺には尺を』は、人物像をはじめとして、問題点や謎の多い作品です。
なかでもこの劇の終わりで、ウイーンの公爵ヴィンセンシオがイザベラに求婚したときのイザベラの沈黙は謎です。
イザベラが公爵の求婚を受け入れるのかどうか、あいまいなまま終わります。
劇団AUNの演出(吉田鋼太郎)では、ヴィンセンシオの求愛の台詞の後、イザベラひとりにスポットライトが集中され、彼女は困惑したような沈黙の表情で中空を見つめます。そのことがすべてを語っているように見えました。
というか、僕には一つの事実がまざまざと思い出されてきたのでした。そもそもイザベラは修道院に入って修道尼となろうとしていたのではなかったでしょうか。いったん修道尼としての誓約をしてしまえば、院長の前でないと男性と語ることもできず、また話をするなら顔を見せてはならないし、顔を見せれば話してはならないという規律の世界に入ろうとしていたのです。結婚などは考えてもいなかったはずです。
兄クローデイオの助命のために一時的にその世界に入ることを延ばさざるを得なかっただけで、兄が無事となればイザベラは修道尼となるのが定めでしょう。
純白の衣裳を着た清楚なイザベラの、呆然とした姿にふっとそのようなことを思いました。

 観客席の前列12列までの両翼の観客席も舞台(花道)に使って、全体が馬蹄形のように広くとられた舞台で、躍動感のある舞台演出でした。
  開演では、いきなり下手の花道から黒い集団があわただしく登場してきて、それが公爵(吉田鋼太郎)とウイーンの貴族たちの一行で、舞台中央で公爵はエスカラス、アンジェロに留守中の全権を委任するや、再びあわただしく上手の花道から去っていきます。
  公爵は旅に出たと見せかけて、アンジェロの統治振りを観察すべく、杖を頼りとする盲人の修道士に変装します。見えない、ということは「聞く」ことに集中せざるを得ません。公爵はこれまで見えていて、実は聞こえていなかった声を聞くことができるようになります。公爵としてアンジェロの謹厳実直ぶりは見えていても、マリアナの不幸は聞こえていませんでした。修道士としていろいろな声を聞くことになるのです。ルーシオの公爵に対する悪口雑言を聞くことになるのもその一つでしょう。盲人の修道士への変装は意表をついたものですが、自分なりに解釈すればこのようなことがいえます。
修道士が、クローデイオの処刑中止に躊躇する典獄に、公爵のお墨付きとして印籠を引き出してくる場面は水戸黄門であり、ルーシオが修道士の頭巾をはがしたとき公爵の正体が現われるところは遠山金四郎の爽快さですが、演出者の吉田剛太郎によれば、勧善懲悪の大円団に終わらせようとすると、俳優たちが一様に、それではおさまりが悪い、気持が悪い、ということになったそうです。
  そのおさまりの悪さは、「悪」の相対性、因果性によるものではなかろうかと思われます。アンジェロの悪を導き出した原因は、法の峻厳さを取り戻すべくアンジェロに執権を与えて、自分は出奔してしまった公爵に起因するところです。アンジェロは本来ナンバーツーであれば非常に能吏であるのを、ナンバーワンにしたところに問題があります。もちろん、イザベラの中途半端な態度もおさまりの悪い要因の一つでしょう。この俳優たちの声というのは非常に貴重だと思います。台詞を身体で表現するものにだけ感じられる感覚は急所を突いていると思います。
今回の公演では一部ダブルキャストでの日替わり上演で、僕の観た公演では、アンジェロに中井出健(星和利)、イザベラが根岸つかさ(千賀由紀子)、ジュリエットは川島典子(白川道子)、淫売屋の女将オーヴァーダンは森本佳代子(長尾歩)でした。中井出健のアンジェロもよかったですが、星和利のアンジェロも比較して観てみたいと思い、それができなかったのが残念でした。
  淫売屋の番頭のポンピーを、ポンピー1,2として二人にわけ、台詞を掛け合いのようにしているのも面白い趣向でした。
  『尺には尺を』の主役は、演出によって、公爵であったり、イザベラであったり、ルーシオであったりしますが、今回の演出ではやはり、吉田鋼太郎の公爵、そして彼が変装する盲人の修道士ということになります。吉田鋼太郎の公爵は、哲学的、思索的、沈着というより、剛直で、行動的といえます。
  そしていつもながら、脇役で活躍する鶴忠博のエルボーが、とぼけた調子で面白いのが印象的でした。

(翻訳/小田島雄志、演出/吉田鋼太郎、6月19日、池袋・サンシャイン劇場にて観劇)

 

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■観劇日記■   劇団AUN公演  『尺には尺を』 追記    2005-003-その2

劇団AUNの林佳世子さんから観劇日記の感想のメールをいただきました。

ダブルキャストの演出で、中井出健のアンジェロと比較して星和利のアンジェロを観てみたかったという僕の感想に、両者の演出の違いを伝えていただきました。そのメールを借用しますと、
<高木さんに見ていただいた中井出アンジェロは狡猾で悪を滲ませる男でしたが、別プログラムの星アンジェロは中年になって初めて恋してしまった馬鹿真面目な不器用な男で、イザベラをレイプ未遂するシーンは特に対照的で星アンジェロからは純粋さや不恰好な憐れさ、哀しささえも感じました。どちらがいい、悪いというのではなく、違いが面白く、また、それがこのホンの主題なのではと思うところです。

絶対的な善、絶対的な悪などない。何を尺度に、そしてどこに目をつけるかで豹変するものの価値、真実は、どこに???>
中井出健のアンジェロは、イザベラをレイプしようと激しく立ち回り、それが失敗してイザベラに非難されますが、彼のめがねの底から爬虫類のように冷たく光る目線が強く印象に残りました。若い中井出健のアンジェロが、狡猾な悪を演じきっているのに対し、ベテランの星であれば、どのように演じているのだろうかというのが僕の興味でしたが、林さんのメールによってよく納得できました。

中井出がアンジェロを演じているバージョンでは、星はその執事のような形で舞台に登場していますが、彼の物静かに控えているというそれだけの存在が、アンジェロの言動を批判的に観ているような印象を与えていましたので、星アンジェロはどんなふうに演じられるのだろうという単純な興味がありました。

若さの中井出とベテランの星を、そのように演じ分けさせた演出が心憎いところです。
昨年の9月にロンドンのグローブ座で見た、マーク・ライアンス演出・主演の『尺には尺を』の観劇日記を読み直していて気がついたのですが、公爵の求婚に対して、イザベラの困惑、驚き、ためらいについては今回の演出と同じ印象を感じていますが、グローブ座の公演では、公爵がその場の凍りついたような空気を和らげるようにして、最後の大円団に、「さあ、踊ろう」といって自ら踊り始めます。そのとき、躊躇しながらもイザベラは公爵に手を差し出します。今回原文を読み直していて気がついたのは、求婚するときの言葉が、‘Give me your hand, and say you will be mine’です。この‘Give me your hand’というのは求婚の際の常套句で、それから判断しますと、ライアンスの演出では、イザベラが幕切れで公爵に手を差し出したということは、幕後にイザベラが求愛を受け入れたという解釈をさりげなく伝えていたのではないかと思いました。

日本ではこの『尺には尺を』の上演は非常に少ないのですが、7月には子どものためのシェイクスピアが上演されます。問題劇といわれるだけに、いろいろな謎や解釈があって、演出の違いを見るだけでも今からそれが楽しみです。   (2005.6.25 付記)

 

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