あーでんの森 散歩道 高木登2004
 
  不幸な恋人たちの季節 『から騒ぎ』&『尺には尺を』
         ロンドン・グローブ座季節公演           
No. 2004-013&014

 2004年、ロンドンのグローブ座の季節公演は、5月初旬から9月の下旬まで「不幸な恋人たち」と題して、『ロミオとジュリエット』、『空騒ぎ』、『尺には尺を』の3本が上演されていた。
 「不幸な恋人たち」('The Star-Crossed Lovers')とは、『ロミオとジュリエット』の序幕、コーラスの台詞に出てくる言葉で、グローブ座の芸術監督マーク・ライランスの解説によれば、イギリスのサマリタン(困っている人々を助ける人)の50年に及ぶ活動からヒントを得て、この言葉を2004年グローブ座の季節公演のタイトルとしたという。
 『ロミオとジュリエット』、『空騒ぎ』、『尺には尺を』の不幸な恋人たちとは、ロミオとジュリエット、ヒアローとクローデイオ、ジュリエットとクローデイオであり、それを助ける役のサマリタンは、修道士ロレンス、修道士フランシス、そして公爵ヴィセンショーということになる。
 私はロンドン出張で、最後のシーズン上演の週に、『空騒ぎ』と『尺には尺を』の2本を観る機会を得た。
ロンドンのグローブ座での観劇は、これが2度目であるが、いずれの場合も楽しく見ることができた。
 グローブ座は、他の劇場でのシェイクスピアの出し物と違って、まず観客を楽しませることに力を入れているような気がする。グローブ座という観光スポットをお目当てに、シェイクスピアを見に来る観光客へのサービス精神に徹しているように感じる。
 グローブ座はシェイクスピア当時のものを再現した形になっているので、通常の劇場のように大道具や装置で見せる劇ではなく、基本的には台詞を聞かせる劇であるが、シェイクスピアの時代を思わせる華やかな衣装や、音楽と踊りで目を楽しませてくれる。

●『から騒ぎ』の観劇感想
 最初の日に観た『空騒ぎ』は、演出者のタマラ・ハーヴェイと出演者のすべてが女性というところに大きな特徴がある。
 ヒアローとクローデイオの不幸な恋人たちより、才気あふれる機知に富んだベアトリスとベネデイックの会話の応酬が楽しみな劇であるが、男役を演じるジョシー・ローレンスのベネデイックは、むしろ可愛いと思えるような役柄であった。警吏のドグベリー役も笑いを結構とっていたが、私にとってはいまひとつ軽い感じがした。
 翌日に観た『尺には尺を』の強い印象で、『空騒ぎ』の感想の余韻がかき消されてしまった気がするが、最後の大円団の踊りが一番印象に残っている。

●『尺には尺を』の観劇感想
 その強い印象を残した『尺には尺を』は、ロンドンに在住の鈴木真理さんが「ロンドン通信」120号で、「Measure for Measure競演」としてすでに報告してくれているように、公爵ヴィセンショーはまさにシェイクスピア版水戸黄門を感じさせるものであった。
 開演前から舞台では楽士たちが、バイオル、オーボエ、リコーダーなどを弾いて観客を楽しませてくれる一方、登場人物たちがリラックスした雰囲気で舞台を歩き回っている。
 一番目を引いたのは、男優が演じる淫売屋の女将のオーヴァーダンだった。頬紅を塗った顔がいかにも淫売屋の女将らしく、露わに出した胸を扇子で扇ぎながら、媚を売っていた。
 舞台の楽しげな雰囲気とはがらりと趣を変わって二階のバルコニーでは、背景の木を背にした庭園で公爵が沈鬱な表情をして書物に読みふけっているのが意味深長に感じられた。
 『尺には尺を』は、放埓な男ルーシオが主役かと思われるような演出があるが、この演出ではマーク・ライアンスが演じる公爵ヴィセンショーがまったく主役そのものとして、公爵を主軸にして舞台は進行していく。
 バルコニーで沈鬱な表情をしていた公爵は、何かを決意していたのであった。それは今までやってきた統治のあり方を変える必要があるのだが、自分がやってきたことを自分で変えるには問題があると考え、それを他の人間にやらせることにして、謹厳実直なアンジェロを公爵代理に選ぶ。
 アンジェロに政治を任せた公爵は、その経過を観察しようと修道士に変装し、その修道士に扮する協力を得るために修道士トマスを訪れたときの公爵の登場の仕方がまた一風変わっていて、『ウインザーの陽気な女房たち』のフォルフスタッフのように、大きな洗濯籠に入れられて運び込まれてきて、そこから突然飛び出て登場する。
 この公爵の登場もそうであったが、ジョン・ダヴ演出の『尺には尺を』では、場面転換や人物登場に趣向が凝らされていて観客を楽しませてくれる。
 たとえば、アンジェロの執務室の場面では、その前に縛られた姿のクローデイオと典獄やオーヴァーダンらが現れて、激しい動きで踊りを展開する。一見脈絡を欠いているようでありながら、象徴的な場面でもあった。
 修道士に変装した公爵は、結婚前にジュリエットを妊娠させた罪で死刑の罰を受けたクローデイオが囚われている牢獄を訪れる。クローデイオは妹イザベラに自分の命を助けるために公爵代理のアンジェロの言うことを聞くよう懇願する。それを傍で聞いていた公爵が執拗なクローデイオを引き離し、持っていた祈祷書で彼の額をパチンと叩くが、その仕草が妙に可愛く見える。
 放埓な男ルーシオ(この劇ではルーチオと発音されていた)が、修道士に変装している公爵に対して盛んに公爵の悪口を並べ立てるが、公爵はそれをいちいち手帳にめもっている。このようなこせついた小さな所作がこの公爵の人物像を作り上げていく。
 修道士に変装した公爵の態度とそのものの言い方は、おずおずとしていて頼りなげで、弱々しく見せている。
 公爵代理のアンジェロの悪行がすべて行われた後、(といってもそれはすべてトリックで、アンジェロがイザベラとの思いを遂げたと思った本当の相手は元の婚約者マリアーナであり、死刑が執行されたと思ったクローデイオは実は他の死人であるのだが)、行方不明であった公爵が帰国することになる。国を離れるときはひそかであったが、帰国は威風堂々として、城門には国旗が掲げられ、ラッパが吹奏されて華々しく登場する。牢獄の檻が、今度は城門の威容を表して、セットの使い方の上手さを感じさせる。
 公爵の前に出てアンジェロの卑劣な行為を訴え出たイザベラに、公爵はアンジェロに裁判を任せる。イザベラは不敬罪で囚われ、マリアーナがイザベラを弁護して訴え出る。彼女は夫が許すまでヴェールを取らないと言い、自分を抱いたと言われたアンジェロに「顔を見せろ」と言われ、そこではじめてヴェールを取る。そして、彼女たちの証人として公爵が変装していた修道士が呼び出され、そこで公爵はその必然性からその席を外れる。
 修道士に戻った公爵は、病人の姿をして車椅子で運ばれてくる。
 公爵の前ではこの修道士の悪口を盛んに言っていたルーシオは、今度は衆目の前では、修道士が公爵の悪口を言っていたと公言する。
 イザベラたちの言葉を裏付ける証言をする修道士に、アンジェロはルーシオに対して、修道士を告発させる。
 ルーシオは図に乗って修道士の頭を叩き、身体をこづきまわすが、あまり調子に乗りすぎて修道士の服をすっぽりと脱がしてしまう。
 現れたのは、公爵の衣装をまとった公爵その人で、ルーシオはそれを見てその場に凍りついたようになる。
 この場面は、遠山金四郎がもろ肌脱いで桜吹雪の刺青を見せ、さあこれが動かぬ証人だ、といったところの心地よさがあるのと、印籠をもって身分を明かした水戸黄門といったところであった。
 謹厳実直なアンジェロの化けの皮は剥がれ、公爵による判決が次々に下される。
 公爵は、イザベラにおずおずとではあるが、その場の勢いを借りてイザベラに求婚の意思を伝える。そのときイザベラは、当惑、驚き、困惑、ためらい、失念、それら全部を含めて何とも形容しがたい表情で凍りつく。
 イザベラの公爵に対する返事は原文でもまったくないまま宙ぶらりんな恰好で終わるが、この舞台でも言葉での返事はないままである。
 しかし、すべてのことがめでたく片付き、イザベラの返事だけをもらえない公爵は、その場の空気を和らげるように、「さあ踊ろう」と自らまず踊り始めると、公爵に続いてみなが踊り始め、イザベラも公爵のプロポーズを受け入れたかのように、公爵と手を重ね合わせて踊り始める。
 こうして大円団の踊りで舞台はめでたく終わり、この劇が「問題劇」と言われていることを忘れて、「喜劇」として楽しんで終わることができる。
 『空騒ぎ』でもそうであったが、この最後の大円団の踊りが観客にとっても楽しみの一つでもある。
 グローブ座ではじめて見たのも、このマーク・ライランスが主演した『ハムレット』であったが、その時にも最後には一同揃ってのジグ・ダンスがあり、舞台の余韻を盛り上げてくれたのがいまだに印象に残っているが、今回も同様に大いに楽しめた。
 芝居の楽しさ、面白さ、そしてシェイクスピアの面白さをグローブ座は与えてくれる。

 

『空騒ぎ』、タマラ・ハーベイ演出
9月21日(火)19時30分開演、
ロンドン・グローブ座、チケット:25ポンド、座席:ミドル・ギャラリー、D15


『尺には尺を』、ジョン・ダヴ演出、マーク・ライランス主演
9月22日(水)19時30分開演、
ロンドン・グローブ座、チケット:29ポンド、座席:ミドル・ギャラリー、D37

 

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