あーでんの森 散歩道 高木登2004
 
   レパートリーシアター・KAZE公演 『ハムレット』      No. 2004-012

~ この人間とはなんたる自然の傑作か ~

 東京演劇集団「風」が、東欧の小国モルドヴァのウジェーヌ・イヨネスコ劇場芸術監督ペトル・ヴトカレウと出会うことによって、新しい『ハムレット』を蘇えらせた。
 東京演劇集団「風」は、1987年秋に、「風のようにモノを自由につくる」という思いを込めて創立され、88年の5月に「未来を自分たちの手で作り出そうとする若者の物語」としてとらえた『ハムレット』で旗揚げ公演し、活動の舞台を地方の学校公演を主力にしながら、自前の劇場を持つというユニークな劇団である。そして近代劇をとらえなおすという試みを通して、現代社会のあり方、人間存在を問い続けている。繰り返し上演されている作品をみると、チェーホフの『三人姉妹』、『桜の園』、『かもめ』や、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』などがある。学校公演は、『星の王子さま』、『Touch』、『ヘレン・ケラー』の3作品がそのレパートリーの中心になっている。
 一方、今回「風」で『ハムレット』を演出したペトル・ヴトカレフは、これまで聞いたこともなかったモルドヴァ出身という。モルドヴァは黒海に近接する小国で、面積は日本の11分の1ほどしかなく、人口は約430万人、言語はモルドヴァ語で、公用語はロシア語、宗教は、ロシア正教とカトリック、日本とは国交がない。ワインの産地として有名なようである。
 演出家ペトル・ヴトカレウは1960年生まれで、モルドヴァの首都キシニョフの芸術大学で演出を学んだ後、モスクワの演劇学校で演技を学び、1988年から2年間モスクワのアルマータ劇場の舞台監督を務めている。2003年「ビエンナーレKAZE演劇祭」で、フランスの劇団" LES OISEAU DE PASSAGE"(渡り鳥)との合作による『チェーホフ・マシーン』で好評を博したことがきっかけで「風」と出会い、ペトル・ヴトカレウ演出の『ハムレット』上演の企画が生まれたという。
 ペトル・ヴトカレウは、『ハムレット』の舞台を彼の息子とその世代のすべての子供たちに捧げるということで、原作にはない子供たちを出演させ、舞台の進行と、大人たちがすることを見つめる役をさせる。
 舞台では6個のガラスのショー・ケースが衝立の役割を果たしながら、それが個々に移動されて有効に活用され、そのガラスのショー・ケースは人一人がちょうど入れるサイズになっている。
 ペトル・ヴトカレウは『ハムレット』の上演のテーマに「世代」ということを考えて演出しているが、それをハムレットの人間賛歌の台詞を繰り返させることで強調する。
 最初は、開幕に当たってショー・ケースの衝立の陰で、コーラスのようにしてその台詞が語られる。
 「この人間とはなんたる自然の傑作か、理性は気高く、能力はかぎりなく、姿も動きも多様をきわめ、動作は適切にして優雅、直観力はまさに天使、神さながら、この世界の美の精髄、生あるものの鑑、それが人間だ」
 この台詞は2幕2場で、ハムレットがローゼンクランツとギルデンスターンに向かって言う台詞であるが、ヴトカレウはこの場面以外にも、開演直後と最後の場面でもコーラスとして使用する。
 開演すると、子供たち(大人が薄い明灰色の衣装を着ている)が現れて、ショー・ケースの衝立に張られた国王クローデイアスのポスターの顔に落書きをして遊ぶ。
 舞台が展開して、そのショー・ケースは宮廷の壁面となり、謁見の大広間の場面となる。
 宮廷の廷臣たち(大人の役割で、黒い衣装で、無人格性を表象して顔にはナイロン・ストッキングのようなものを被って表情はいっさい見えない)は、壁面に張られた国王の顔が落書きされているのを見て、驚きあわてる。
 国王クローデイアスと王妃ガートルードが登場し、クローデイアスはその落書きに気がついて熱心に見入り、廷臣たちはその不始末をはらはらして見守っているが、クローデイアスは腹を立てることなく、また子供たちを咎めることもなく笑って済ませる。そこで廷臣たちもやっと安心して笑いだす。
 クローデイアス役はアルカデイエ・ストランガル、ガートルード役はアラ・メンシコフが演じ、この二人だけがモルドヴァの俳優で、台詞もロシア語(モルドヴァ語?)で語られるが、ガートルードの居間の場面だけはアラ・メンシコフが日本語で台詞を語る。この二人の演技は台詞、所作ともに非常に優れていた。
 ヴトカレウの演出で今回特に注目されたのは、水の使い方であった。
 クローデイアスとガートルードがローゼンクランツとギルデンスターンに謁見する場面で、二人はガラスの水槽の中で水浴と愛撫に戯れている姿で運ばれて登場し、二人は濃艶な愛撫に忙しく、ギルとロゼの挨拶も上の空で聞いている。
 次は、有名なハムレットの「このままでいいのか、いけないのか」の独白の場面で、ハムレットはこの水槽に身を沈めて独白をする。それも長い間、思考を逡巡するかのように、「このままでいいのか、いけないのか」という台詞を何度も何度も反芻し、迷いの気持を抑えようとするかのように、息の続くまで全身、顔まで水に沈め、呼吸(いき)の限界を超えたところで水から浮かび上がって再びこの独白の台詞を続ける。このハムレットの独白は、オフイーリアとの尼寺の場面の前ではなく、その後にもってこられて独立した形になって演出されている。
 クローデイアスの祈りの場面でもこの水槽が使われる。クローデイアスは「罪に汚れた手」をその水槽につけて洗い落とそうとするが、罪は洗い流されることはなく、クローデイアスは絶望して、祭壇にある燭台のろうそくを燭台ごとその水槽につけて火を消す。そのとき、水槽の水の色が赤く血の色に滲むのが印象的であった。
 ガートルードの居間の場面でも同じようにして水槽が使われ、ガートルードは、「どす黒いしみ」を洗い落とそうと手を洗うが、「洗っても落ちはしない」。
 このように水を効果的に使用しているのが興味を引いた。
 そのほかにヴトカレウの演出で注意を引いたのは、役者の一行がエルシノアに到着して、ハムレットの要望で役者がピラスの場面を演じる場面で、ピラスとヘキュバの場面の台詞を二人の役者に分けて演じさせているのが、面白い趣向だと思った。
 またゴンザーゴ殺しの芝居の場面で、ルシエーナスが毒液で国王を殺害するのが待ちきれず、ハムレットは彼から毒液の瓶を取り上げて、寝ている国王の耳元に乱暴に毒液を注ぎ込んだのにも興味を引かれた。
 細かい演出としては、ガートルードの衣装の変化がある。
 前半では、クローデイアスとの再婚の喜びと愛欲を表象するかのように鮮やかな緋色であったが、ハムレットの言葉に衝撃を受けた居間の場面以後の後半では、後悔と改悛の気持を込めたように黒い衣装に変、クローデイアスに対する態度も変化する。ハムレットとレアテイーズの剣の試合でハムレットが1本取ったとき、祝杯の杯をハムレットの代わりに飲もうとすると、クローデイアスがガートルードからその杯を取り上げて杯を渡すまいとするが、ガートルードは無言のまま、手を差し伸ばして杯を渡すように執拗に強いる。一瞬の間の出来事であるが、二人の呼吸の間合いが息の詰まるような緊張感を与えた。このときのガートルードはその杯に仕掛けがされていることを明らかに予知しており、覚悟の上の行為として演じられている。この場面のストランガルとメンシコフの演技には迫真力があった。
 クローデイアスとガートルードが大人の演技とすれば、オフイーリアは子供の演技を割り振られているようで、まだ遊び盛りの子供のような行為をする。兄レアテイーズがフランスに旅立つときの別れの場面では、レアテイーズの後ろ髪に飾り付けのいたずらをしたり、レアテイーズに飛びついて胴を両足で挟み込んで抱きついたりする。乙女の所作ではなく、まったく子供の動作である。もっと驚きは、尼寺の場面で、ハムレットに声をかけられると、懐かしさのあまりにハムレットに飛びつき、同じように両足でハムレットの胴を挟んで抱きついたことであった。
 オフイーリアの狂気の場面では、彼女は土を盛った畳一畳ほどの大きな平たいガラス箱を、荷車を引くようにして綱で引っ張って登場する。その箱の中には白い十字架がたくさん立てられ、造花の花が植え込まれている。
 ハムレットを演じる緒方一則は、執拗な黒い山猫のような異様さが漂っており、「貴人」というより、山犬のような感じのハムレットであった。
 そのほかの登場人物では、ポローニアスは、猫背で杖を突いて歩く腰の曲がった老人として造形されており、いつも鼻をかんでブーブーいわせているので、若者たちから恰好のからかいの材料にされる。
 ホレイショーは、この演出では存在感に乏しい影の薄い人物に感じられた。
 また、この『ハムレット』の特徴の一つとして、フォーテインブラスの登場がなかった。フォーテインブラスの登場がない演出は特にめずらしいことではないが、ヴトカレウの特徴は、フォーテインブラスの代わりに子供たちを登場させていることで、子供たちはこの惨劇の有様を見るが、彼らは最後には、一人一人、6つのガラスのショー・ケースに閉じ込められ、その閉じ込められた姿は、胎内にいて外の様子を伺っているように見える。ショー・ケースは母体の子宮を表象するかのようであった。
 ヴトカレウは、子供たちの世代へのメッセージを込めているが、そのメッセージは特にこの最後の場面に感じられる。
 この舞台は、モルドヴァと日本の初めての共同プロジェクト作品であるが、演出のヴトカレウをはじめ、舞台美術のステラ・ヴェレチュアヌ、音楽のマリアン・スタルチュア、そしてクローデイアス役のアルカデイエ・ストランガル、ガートルード役のアラ・メンシコフたちモルドヴァの演劇人によって、両国の将来の道が開かれたように思われた。

 

翻訳/小田島雄志、上演台本・演出/ペトル・ヴトカレウ
8月21日(土)14時開演、東中野のレパートリーシアターKAZE

 

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