~ ブルータスを愛するキャシアスの悲劇の物語 ~
四方形の舞台の周囲は観客席で囲まれ、裸でむき出しにさらされている。
そこで演じる俳優たちは全方位からの視線を浴びることになり、俳優の入退場は必然的に観客席の通路を通ってくることになる。
『ジュリアス・シーザー』の舞台では、これまでにも観客を大衆とする設定の演出を幾度か観てきたが、この舞台では観客=大衆とはなっていない。
観客である我々がそのような意識にさせられていない精神的な距離感を感じさせているのがその理由である。舞台との距離感は縮められているが、意識としては舞台との距離感が感じられる。
三輪えり花演出の『ジュリアス・シーザー』は、シーザーの悲劇というより、ブルータスとキャシアスの悲劇、とりわけキャシアスの悲劇を中心に見据えたところに最大の特徴があると思う。
キャシアスには、元宝塚花組トップスターの大浦みずきが演じ、それも女優が男役を演じるというのではなく、ブルータスを恋い慕う女性そのものにキャシアスが比喩化されている。
完全に女性化されているというのではないが、ブルータスに対しているときのキャシアスは女性そのものである。ブルータス以外に対してのキャシアスは中性的存在に感じさせる。
そこには、「キャシアスを女性にし、キャシアスの陰謀で始まる悲劇に巻き込まれていく男たちという構造で描こうと、今回の演出の根っこを定めた」という三輪えり花の演出の意図が投影されている。
怜悧な策謀家であるキャシアスの悲劇は、恋するブルータスの前では理性の人ではなくなるところからおこる。自分ではまずいと思いながらもブルータスの意見に譲歩してしまう。シーザー暗殺の後、本来はシーザーとともにアントニーも殺すべきだと主張したキャシアスが、ブルータスの言葉でシーザーの追悼演説までも譲歩して許してしまう。そして彼の破滅を決定的にしたのは、決戦に当たって、サーディスに留まってアントニーの軍勢を迎え撃つべきだという主張もブルータスに退けられて、フイリッピへと進撃してしまう。
これらのキャシアスの譲歩は、彼が懸念していた不安を現実のものとし、取り返しのつかない失敗となる。 それゆえに、これはキャシアスの悲劇の物語もといえる。
ブルータス(田中正彦)は、その最後において屍と化したキャシアスを抱きしめるが、それは恋人との永訣の抱擁であった。ブルータスもまた、キャシアスをこよなく愛していたのが伺える演出であった。
三輪えり花の演出でもうひとつの特徴をなしているのは、シーザー暗殺を「9・11」テロになぞらえて、「3・15」のテロと規定しているところにある。
大シーザーが暗殺者の手に崩れて倒れる姿が、ワールドセンターの崩壊と重なる。
預言者の言葉は「3月15日にご用心」(Beware the ides of March)であるが、それを「3・15と訳出している。
「9・11」の前では考えられなかった訳であろう。しかし「9・11」と並列化してしまうのには問題があるのではないだろうか。ましてや「3・15」を預言者だけでなく、ブルータスにまで「3・15」と言わしめると、シーザー暗殺の行為を矮小化させ、大義のクーデターではなく、自らをテロリストとして規定してしまうことになり、単なる無差別テロとなってしまう。「9・11」は、関係のない一般の大衆を巻き込んだ無差別テロであったが、3月15日は異なる。
暗殺の対象は独裁者であるシーザーのみで、その目的は自由への解放であった。だから、少なくともブルータスは「3・15」と記号化すべきではないと思うのだ。
この劇の時代性は、その衣装によって非常に曖昧化されているが、シーザー暗殺のクーデターの模様を民衆に混じった女性のテレビ・レポーターがビデオを回して撮影している場面を挿入している。
これなどはもっと主張性をもたせた演出をする方がよかったのではないか。前後の関連性もなく、その場面は浮いてしまって、その意義性が感じられなかったのが残念である。
違和感を覚えたのは、 その衣装のあり方で、ブルータスやキャシアスなどは袴をはいて、日本刀を吊り下げ、腰には拳銃を差している。一方、護民官たちは現代風のミリタリールックで、逆にシーザーは古代ローマを思わせる服装で、シーザーの妻カルパーニアは現代風スーツ、といった具合に全体的に衣装がアンバランスで、その意図の判断に苦しんだ。
出演は、ブルータスの田中正彦、キャシアスの大浦みずきのほか、大シーザーとオクタヴィアヌスの二役に伊藤明賢など。
台詞のつかえなどもあり全体的には必ずしも満足のいく舞台ではなかったが、キャシアスの人物設定のチャレンジには、新しいものの見方として興味あるものであった。
翻訳・脚本・演出・美術/三輪えり花
8月7日(土)13時開演、両国・シアターX(カイ)、チケット:5000円、整理番号付自由席(92番)
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