あーでんの森 散歩道 高木登2004
 
   子供のためのシェイクスピア 『ハムレット』       No. 2004-010
 

〜 ハムレットの独白がコロスに変じて 〜

 一口で言って、こんな愉快で楽しい『ハムレット』を見るのは初めてだ。休憩を挟んで2時間10分の上演時間でありながら、オリジナルの肝要な場面はほとんど取り入れられていて、しかもオリジナルにはない挿話も組み込まれ、それがまた面白い劇中劇効果を出している。

 オリジナルを思い切って入れ替えた構造で、それでいて前後の話をうまくつないでいる。この劇の主旋律をハムレットの独白にして、劇の始まりは有名な‘To be or not to be’「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」の台詞からである。そして「死ぬ、眠る」という言葉が伴奏となってリフレインされる。この有名なハムレットの独白は、ここではハムレット以外の黒いソフト帽に黒マントの黒子達によってささやかれる。それは劇の進行中に、コーラスとなってたえず繰り返される。子供のためのシェイクスピアでは、この黒いソフト帽に黒マントの黒子が常套手段となっているが、今回ほどそのコロスとしての効果を感じさせたものはなかったと言っていいだろう。

 「死ぬ、眠る」という言葉から、フォーテインブラスの「この屍の山は無残な殺戮の場面を物語っている」という『ハムレット』最後の場面の台詞へと誘い、その惨劇の一部始終を語るという言葉でドラマは始められる。そのことは必然的にこの物語を円環構造にする。終わりが始まりで、そして同じ形で終わるので、再び物語が繰り返えさせられることを予感させる。

 デンマーク王ハムレットとノルウエイ王フォーテインブラスの一騎打ちの挿話は、彩乃木崇之のフォーテインブラス、山崎清介のハムレット王が、アイスホッケーの服装で、アイスホッケーのステイックを武器にして戦う。これはホレイショーの台詞に出てくる話をドラマ化して、想像力を補ってくれるだけでなく、楽しい見世物にもなっている。「子供のための」シェイクスピアならではの冒険であろう。かといって子供におもねっているわけではなく、質の高さを感じさせるだけのものが十分にあった。

 子供のための、と言いながら高度な演出上の工夫が随所にある。その中でも特に注意を引いたのが二三ある。

その一つは、オリジナルではハムレットがポローニアスに対して答える「ことば、ことば、ことば」の台詞を、ここではオフイーリアがハムレットの不実を責める時にその台詞を使うが、非常に効果的な転換だと思った。

次は役者たちによる劇中劇の場面。劇中劇の王が毒殺された場面でクローデイアスは席を立って、その役者の首を絞めようとする。そしてクローデイアスが振り返って自分の席を見てみると、自分が座っていた席にはデンマーク王ハムレットが座っているではないか。これなどは『マクベス』を思い出させた。

 今ひとつは、ガートルードの居間、ハムレットとの対面の場面。ハムレットが母ガートルードに向かって、「いま、鏡をみせてあげましょう」と言って、短剣の刀身を鏡にして見せようとする場面である。これは松岡和子の『シェイクスピアの「もの」語り』、「ハムレットが手にするもの」としての話で、<第3幕第4場、ガートルードの寝室では、母の「心の奥底まで映す」鏡として剣の刃をつきつけ、次にはそれでポローニアスを刺殺する>というのがあるが、演出の手法でこれを用いている。

 『ハムレット』全体の印象としては、ハムレットの独白がコロスによって語られるため、ハムレットの存在感がそれだけ希薄化しているが、植本潤のハムレットはこれまでにないニュートラルな感じがした。伊沢磨紀と彩乃木崇之の演じるロゼとギルは田舎者の言葉で、その道化的存在を浮き出させていて、人物造形として子供にとっては分かりやすいのではないかと思った。

 最後に蛇足ながら、ハムレット(だったと思う)が「だまかす」と言ったとき、ガートルードが「?」という表情をしたので、すぐに「ごまかす」と言い換える場面があったが、これは脚本・演出の山崎清介が福岡の出身で、方言を出しているせいだろう。こんなことも「遊び」として楽しかった。

(脚本・演出/山崎清介、7月17日、世田谷パブリックシアターにて観劇)


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