あーでんの森 散歩道 高木登2004
 
   メジャーリーグ制作 『ハムレット』          No. 2004-004
 

〜 死者の祭典『ハムレット』の甦り 〜


 東京芸術劇場ミュージカル月間の出し物の一つとして、メジャーリーグの『ハムレット』が1年半ぶりに池袋のサンシャイン劇場から帰ってきた。もう忘れてしまっていたけれども、この演出は音楽劇でもあったのだ。だからミュージカル月間の上演作品なのだということを、劇を見終わって改めて感じた。歌よりも、女優が演じるハムレット(安寿ミラ)とホレイショー(旺なつき)という印象の方が脳裏にこびりついていた。

 この『ハムレット』は再演であるが、再演であって再演ではない、まったく新しいものに生まれ変わっている。1年半の間に、成長し進化している。今回の出演者で前回と異なるのは、クローデイアスが吉田鋼太郎から替わった山谷勝巳だけで、あとは役柄も出演者も全部一緒である。しかし、大きく異なるのは、フォーテインブラスの登場である。フォーテインブラスには、振付師の舘形比呂一が演じている。前回登場のなかったこのフォーテインブラスの登場で、今回、オープニングとエンデイングの構造が大きく変わっている。

 前回のオープニングの場面を、僕の観劇日記から引用してみると、

<開演とともに、暗黒の舞台を、どこからともなく聞こえてくる鈴の音が、巡礼の一行の旅姿を彷彿させる。その鈴の音は、荷車を押していく旅役者達の一行のそれであることがやがて知れる。その旅役者達の一行の姿は、幽鬼か夢遊病者のような足取りで、舞台をゆっくりと、荷車を押しながら蠢((うごめ))く。>

 そして、<この芝居はホレイショーで始まり、ホレイショーで終る>とも記している。

 今回のオープニングは、亡霊の登場からである。灰白色のフードのついたマントをまとい、顔や姿は見分けがつかない。その動きは、緩慢で、張り詰めた緊張感がある。その亡霊は、フォーテインブラスを演じる舘形比呂一が扮していて、緩慢な所作の中にも、筋肉の張り詰めた動きを感じることが証明されるのは、彼がやがて右腕をそのマントから出して、ゆっくりとした腕の動きの所作を演じるときに、はっきりと目にすることができる。その筋肉質な腕は鋼線のように張り詰めている。亡霊の無言の所作は、その緊張感の中で、息苦しいまでに無限に続くような長さを感じる。やがて、舞台後方から、同じくフードのついたマントをはおったホレイショーが登場し、交差するようにして亡霊は退場する。死者達が押す荷車の登場はこの後である。

 エンデイングでは、ハムレットとレアテイーズの剣の試合でホレイショーを除く全員が死んでしまい、後に残ったホレイショーが最後の台詞を語って暗転し終幕となる。ここで終わりと思っていっせいに拍手が沸くが、しばらく間を置いてハムレットが登場し、第4幕4場、ハムレットがイングランドに船出する際に、フォーテインブラスのポーランド侵攻に遭遇しての独白を語る。その台詞に誘発されえるようにして、フォーテインブラスがマントを翻して登場し、蝶のように舞台を駆け巡り、やがてハムレットと対になって踊り始める。この度の舞台は、このようにして、フォーテインブラスで始まり、フォーテインブラスで終る。

 今回の演出でもう一つ気付いた違いは、剣の試合の場面である。前回は剣も持たずに、ハムレットとレアテイーズはただゆっくりと歩き回って、言葉だけで試合を表象していた。今回は、短剣を持って、二人は激しく動き回っている。この場面での音楽もかなり激しく演奏され、全体がノイズでカオスの世界と化す。

 これは個人的な印象であるが、初演ではハムレットとホレイショー、つまり安寿ミラと旺なつきが一卵性双生児のように感じられたのが、今回そこまで感じなかったのは、二人の進化のせいであろうか。

 吉田鋼太郎に替わってクローデイアスを演じた山谷勝巳も好演で、非常によかったと思う。吉田鋼太郎とはまた一味違ったクローデイアスのヒューモアを感じた。

(翻訳/松岡和子、演出/栗田芳宏、東京芸術劇場・中ホールにて、2月21日観劇)

 
 
■観劇日記余話■     メジャーリーグ制作の『ハムレット』再び
 

〜 ハムレットが手にする剣について 〜 

つい最近出された松岡和子の『シェイクスピア「もの」語り』(新潮選書)を読んでいて、大変なことに気がついた。それは「ハムレットが手にするもの」という話題のなかにある。

 <お次は剣。(中略)母王妃に呼ばれ、その寝室へ急ぐ途中。祈っている王を殺そうとして鞘から抜く。第3幕第4場、ガートルードの寝室では、母の「心の奥底まで映す」鏡として剣の刃をつきつけ、次にはそれでポローニアスを刺殺する。> (p.30)

 栗田芳宏演出の『ハムレット』では、この場面で、ハムレットの安寿ミラが、短剣を抜いてガートルードに突きつける。当然ガートルードは身の危険を感じて、「私を殺す気か?」と騒ぎ立てる。それを物陰から見ていたポローニアスは一大事とばかり声を出して、ハムレットにその短剣で殺されることになる。この動きが一連の糸につながったようにして流れる。

 この部分の翻訳を見ると、この演出で使われた松岡和子訳でも、

「いま鏡を出します。心の奥底まで映してご覧にいれましょう。」
となっている。「剣」とはどこにも書いていない。原文でもこの個所は、

You go not till I set you up a glass

Where you may see the inmost part of you. (3.4.18-9)

「鏡」となっていて、どこにも「剣」という言葉が出てこない。にもかかわらず、この場面では「鏡」として「剣」の刃ほどふさわしいものはないと思う。初演ではどのような演出になっていたか忘れてしまったが、今回の演出ではこのことにはっきりと気がついていたのだが、大きな問題としてとらえていなかった。それが、松岡和子のこの著書を読んで俄然、脳裏に稲妻のようにひらめいて思い出されてきた。

 シェイクスピアの原文にもないこの鏡に対する「剣」について、松岡和子はどこから引き出してきたのであろうか。栗田芳宏は、前回ハムレットとレアテーズの剣の試合でも剣を持たせず、ただ歩き回るだけで、言葉で試合をさせていた。今回この寝室の場面の剣といい、剣の試合での短剣の使用といい、前回とは異なる演出をしている。

しからば、栗田芳宏が、この場面で「鏡」ではなく、「剣」を用いたのは何を元にしたのであろうか?

04.02.28 記

 
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