高木登 観劇日記
 
  国際チェーホフ演劇祭inモスクワ 『ハムレット』 No.2002-020

〜 アーチスト・ハムレット、青春の悲劇 〜

 ペーター・シュタイン演出、ロシア人俳優によるロシア語の『ハムレット』来日公演については、公演の半年以上前から、いろんなところで多様に語られてきていたので、もう自分もすでにこの劇を観てしまったような気分で、語るべきものは何も残されていないように感じるほどであった。が、なかなかどうして、実際に自分の目で見れば、多くの批評でも見受けられなかった自分なりの新しい発見がでてくるものだ。

「演劇で大切なのは空間性」

「演劇というのは3次元空間がなければ成立しない」

「作品の上演にあたって舞台と観客の間の関係をどのようにすればよいのか、作品ごとに決定していく方式を私はとっています」

「私にとって舞台空間は非常に多くの機能をもった多機能空間です」

 2001年10月15日、新国立劇場で「演出家のまなざし」と題したペーター・シュタイン講演会からの再録である。これらの言葉をわざわざ取り上げたのは、今回の舞台装置について語るためである。今回の舞台が四方を観客に囲まれたリング形式のものであることは、前宣伝で早くから分かっていた。だが、実際に自分がその舞台の観客となって座るとき、観念的想像力で描いていた印象とはかなり異なる。それはその場における臨場感からくる差異である。新国立劇場・中劇場の舞台を解体して観客席とし、舞台は本来観客席であったところに据えられる。舞台を底にして、観客席はすり鉢の底からせりあがっていくような形で古代ローマの闘技場のようなイメージである。僕の席は、本来は舞台である側の席で、最前列。舞台を若干見上げるようなかたちである。リング状の舞台装置だけでなく、観客席を含めた劇場全体の空間が、この劇の舞台となる。出演者は、観客席通路を通って登場する。そして、観客席そのものが舞台の一部ともなる。劇場空間の多様性。

 開演とともに、第1幕第2場、クローデイアスの謁見の場面からいきなり始まる。これは昨日観たベルリーナー・アンサンブル来日公演の『リチャード2世』とまったく同じ始まり方(第1場を省略)だったので、特に印象が強い。国王クローデイアスと王妃ガートルードの華やかな衣装に対比して、ハムレットは黒い衣装で、国王夫妻とは背を向けている。そして時おり、いらだったように、あるいは拗ねたように、唇に当てた鳩笛をヒューと鳴らす。ポローニアスは大会社の重役のような恰幅で威厳のある貫禄。そのポローニアスを間にして長身のレアテイーズと、小柄なオフイーリアが清楚なブルーの衣装で並んで立つ。ハムレットが愛情の仕草でオフイーリアの手を軽く触れると、オフイーリアはこぼれそうな喜びの表情で応える。それをレアテイーズが苦々しく見つめる。このことで、次の場面でレアテイーズがフランスに旅立つのに際して、オフイーリアにハムレットとのことを注意するのに説得力が出てくる。

 亡霊は第4場で初めて登場する。甲冑姿ではなく、経帷子をイメージするフードのついた白いマント風オーバーコートをまとっている。ハムレット、ホレイショーの一行は本来舞台である側の観客席後方、亡霊は反対側の観客席通路に登場する。従ってだいぶ距離がある。ハムレットは剣を持たずに登場するので、ホレイショーたちに誓いの言葉を立てさせるのも、互いに手を固く重ね合わせてすることになる。この後もハムレットはフェンシングの試合以外では剣を持つことはない。クローデイアスが懺悔の祈りの最中に襲おうとする場面での武器も、ガートルードの居間でポローニアスを殺戮するのも、護身用にもった短剣によってである。

 亡霊の登場は、第1場での省略はあるものの、この後ガートルードの居間の場面以外に2度登場する。ハムレットがデイスコ・ガールと戯れているのを引き離す場面と、ハムレット最後の場面である。ペーター・シュタイン演出ではフォーテイン・ブラスが登場せず、彼の登場する場面の内容は省略される。その代わり、でもないだろうが、この劇の幕切れは亡霊が、死んだハムレットを労わり慈しむようにして、白い布を経帷子のように着せかけ、自分もその布に包くるまってハムレットを抱くようにして覆い被さり、横たわる。

 話がいきなり最後に飛んでしまったが、続きにもどすと、第2幕第1場の場面も全面的にカットされる。第1場のポローニアスと従者レナルドーの会話の場面は一般に省略されることが多いが、オフイーリアが父ポローニアスにハムレットの異常を訴えにやってくる場面は、ハムレットの狂気を伝えるのに重要な場面であるのであまり省略されることがないので、その省略が逆に印象的であった。

 ギルデンスターンとローゼンクランツはエレキギターを持って国王のもとに参上する。ハムレットとロゼ、ギルとはバンド仲間であった、という設定である。再会した3人はしばし懐かしむようにしてビートルズの曲を演奏する。ただしロゼとギルのエレキは単に真似事だけだが、ハムレットは実際にテナーサックスを吹く。これが随分うまいので、それを聞くだけでも楽しい。運命の歯車が狂っていなければ、ハムレットはアーチストとなっていたかも知れない、というのがシュタインの設定である。そしてハムレットもまた普通の青春を謳歌していたのだということが分かる。それを色濃く演出したのが、唐突とも思えるデイスコの場面。デイスコでハムレットは半裸の美女と戯れる。その美女をハムレットから引き離すのが亡霊である。

 第3幕第1場のハムレットの有名な独白の場面‘To be or not to be’では、ハムレットはサックスを吹きながら客席通路を降りてくる。しばらくサックスを吹き鳴らした後、独白の台詞に入る。残念ながらロシア語で、イヤホン・ガイドなし、字幕スーパーなしなので、ロシア語の翻訳が原文に忠実であるのかどうかはまったく分からない。ただ、気分とハムレットの表情を凝視するのみ。オフイーリアを責める尼寺の場面の激しさは、所作だけ見ているとそれほど強くないように感じた。

 役者登場の場面では、ハムレット、ギル、ロゼの若者の世代と対比するかのように、台詞がオペラ調で演じられるのが象徴的な気がする。少年劇団と成人劇団の対立のアレゴリーとも言える。劇中劇でのクライマックスは、クローデイアスは驚愕で席を立つというより、ハムレットの意図を覚ったかのようにじっくりと立ち上がってハムレットの元へ歩み寄り、顔をつき合わせて対峙したうえで踵を返して引き下がって行くのも強烈な印象である。

 ガートルードの居間で、母を責めるハムレット。そのハムレットの両脇を抱えるようにしてガートルードから引き離す亡霊。

 父ポローニアスを殺されたオフイーリアは、白いエレキギターを肩から吊るして、下着姿同然の格好で登場する。白いエレキギターは、オフイーリアがハムレットと一緒にバンド演奏の活動をしていたことを暗示するかのようでもある。ハムレットとの愛情は、たぶん一緒に活動したときに芽生えたのかもしれない。そしてそのエレキギターはハムレットを偲んでのことかも知れない。ギターを弾くでもなく、放心状態のオフイーリアが可憐で哀れに見える。しかし、痛ましいまでの狂おしさはないように感じた。

 墓堀の場面で、レアテイーズとハムレットが掴み合いのけんかとなって、レアテイーズをかばうガートルードの姿が異様なまでに感じた。

 いよいよハムレットとレアテイーズとの試合の場面。レアテイーズが剣を選ぶとき、細身の剣先のタンポンを外し、剣先を検めるようにして毒を塗りこむ(ように見えた)。試合を2合、3合と結んでハムレットから1本も取れないレアテイーズが自分の剣のタンポンを取り外し、ハムレットに切りつける。この決闘の場面で興味深いのは、レアテイーズがどのようにして毒を塗った剣を選び取るか、ということである。剣先を丸めていない場合、それとすぐ目に付くはずであるので、今回のような演出であると非常に納得がいくやり方である。

 今ひとつこの場面で関心を呼ぶのは、クローデイアスがワインに毒をどのようにして、いつ入れたかということである。その場合グラスは一つであるのか、それとも二つであるのかも興味あるところである。毒物については、クローデイアスが公に入れる真珠そのものが毒であると一般に信じられていたという説もあるが、もしそのように信じられていたのなら、真珠をワインに入れられるはずがない。毒物は何かほかのものでなければならない。演出上は単純に真珠が毒物であったと考える方が自然な行為に見える。今回のグラスの数であるが、二つあったように記憶している。一つはクローデイアス自身用に、もう一つがハムレットのものとして。

 ガートルードの台詞で問題のある個所がある。それは‘He’s fat and scant of breath’である。一般には「汗をかいて息を切らしている」と訳されているが、河合祥一郎は、これを文字通り「太った」としている。ロシア語訳ではどのように訳されたのであろうか?いずれにしてもハムレット役のエウゲーニー・ミローノフに関する限り、その訳を「太った」としたら大いに違和感を覚えることだろう。演出上からすれば、ガートルードがハンカチでハムレットの額を拭ってやることを考慮すれば、「汗かき」とする方がぴったりする。

 レアテイーズが倒れ、ガートルードが死ぬ。謀反の張本人はクローデイアスであるとレアテイーズに告白され、ハムレットの追跡から逃げ惑うクローデイアスを、誰も助けないだけでなく、彼の逃げ場を妨害する。そしてハムレットはついに復讐の義務を果たすことができる。ハムレットにとって「復讐」は「義務」のようなものであった。そして彼はやっとその義務から開放されるのである。彼がやりたかったことはもっと別なことにあった。それを表象するのがサックスを吹くハムレット。

 死んだハムレットを抱いて横たわる亡霊の姿が鮮明な印象を残す。

 劇場空間をうまく使った演出も印象的であった。

 初めの方で述べたように、今回の公演は前評判の批評に事欠かず、事前情報が多くあったので、自分の目で観た印象を逐次的にメモ風に感想を交えてまとめてみた。

 

(構成・演出/ペーター・シュタイン、新国立劇場・中劇場にて、9月16日昼観劇)

 


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