高木登 観劇日記
 
  RSC 公演 The Merchant of Venice No.2002-016

〜 二人のアウトサイダーの孤独と憂鬱 〜

 ラブデイ・イングラム演出による『ヴェニスの商人』の感想を一口で言えば、非常に繊細で、明解にしてかつ多様性を含んだ問題提起を観客に訴える感動的な作品である。人物設定としてのキャステイングも非常によかった。そしてなによりもの驚きは、アフター・パフオーマンス・トークに参加をされたラブデイの華奢な若さである。

 作品を全体としてみれば特別な新奇性、奇抜さはないといえるだろう。むしろ素直な演出である。しかしながら細やかな工夫が随所に伺われ、作品解釈の多様性を改めて感じさせてくれる。

★ 二つの異質な世界のコントラスト

 『ヴェニスの商人』は、場面がヴェニスとベルモントという二つの場所で交互に展開される構成となっている。

 この二つの都市が全く対照的な世界で、一方が交易の中心地・商業都市という現実世界で、他方はその名が示すように「美しい山」という架空の都市である。

 物語はヴェニスで始まり、ベルモントで終わる。現実の世界から虚構の世界への移行ということで、この物語が「お伽話」であることを感じさせる。

 場面設定としてのセットはシンプルである。奥舞台に、能舞台で使われる鏡板を広大にしたような5つの開閉式ドアからなる仕切壁によって、舞台がヴェニスの社交クラブの部屋にもなり、ベルモントのポーシャの邸にもなり、ヴェニスの法廷の場にもなる。

 場面設定としての二つの異質な世界以外に、物語の中で様々な二つの対立項が展開される。

 まず大きなものが宗教的なもので、キリスト教世界とユダヤ教世界の対立項。アントーニオやシャイロックの世代とバッサーニオをはじめとする若い世代とのジェネレーションの対立項。法の正義と慈悲の対立項。実業(貿易業)と虚業(高利貸し)とのビジネスの世界の対立項。そして、享楽的人生と質実倹素の人生、知性と感情の対立項など。ラブデイはこれらの対立項を鮮やかに浮き彫りに演出する。

★ 二人のアウトサイダー

 『ヴェニスの商人』には二人のアウトサイダーがいる。一人は民族的アウトサイダーであるシャイロック。もう一人はホモセクシュアルな存在のアントーニオ。二人はアウトサイダーとしての疎外感を持っている。

 アントーニオの憂鬱は、バッサーニオへの同性愛から生じる内なる疎外感からくる孤立感である。

 アントーニオがバッサーニオに同性愛の気持を抱いていることを伺わせる場面がある。1幕1場で、アントーニオはバッサーニオにちょっとしたプレゼントを渡す。その何気ない仕草がアントーニオの気持を物語っているという細やかな演出である。

 アントーニオの疎外感が鮮やかに描き出されるのは、これまで過去の演出にもあったように、第5幕、ベルモントの大円団の場面である。指輪騒動も一件落着の後一同舞台を下がっていくが、アントーニオだけ一人残っているという終わらせ方である。ラブデイの演出も同様な手法である。その前に、ジェシカも皆より少し遅れて、アントーニオの方を見やって、淋しげに退場する。ここで人はもう一人の疎外者、シャイロックの存在をはっきりと意識することになる。

 シャイロックの疎外感は、ユダヤ人であるがために外的強制から発生するものであり、共同体で共生していくためには法的秩序で守られなければ共存できない。法の正義が失われればその基盤を喪失してしまう。従って彼の立場からすれば、彼に慈悲を求めるのは論外であり、むしろ彼こそ慈悲を必要とする立場にある。

 イアン・バーソロミューが演じるシャイロックはそのことを痛感させる。シャイロックの「人間宣言」の台詞は、彼の疎外者としての叫びである。

★ ラブデイ演出に見る『ヴェニスの商人』の新鮮さ

 第1幕第3場:ヴェニスの路上。

 アントーニオはシャイロックに3000ダカットの借り入れを依頼している。そこへアントーニオが通りかかるが、初めは全く気付かない。が、こともあろうにバッサーニオが、アントーニオの嫌悪し蔑視しているシャイロックから金を借りようとしているのだと知って、アントーニオはバッサーニオを責め立てる。

 バッサーニオがまさかシャイロックなどから金を借りようなどとは夢にも思わなかったアントーニオの気持がよく表現されていて、話の筋としてもごく自然に感じられる演出で、よく納得できる。

 第2幕第1場・7場、9場:ポーシャの邸。モロッコ大公とアラゴン大公の箱選びの場面。

 これはキャステイングと小道具の面白さ。

 モロッコ大公に黒人俳優であるクリス・ジャーマンを起用し、「肌の色」の台詞がリアルそのものとなる。武勇伝を語るのに、手にした半月刀を振りかざしてポーシャを驚かす。箱選びに失敗した後、その半月刀をポーシャに残していく。

 アラゴン大公は、薔薇の花とギターを手にしてフラメンコ調で登場。台詞もスペイン語的訛りを入れて、人物像に親しみを感じさせる。その台詞の訛りが箱選びに失敗した道化ぶりを助長するおかしみ。

第2幕第2場:ヴェニスの街頭。

 ランスロット・ゴボーが、主人のシャイロックの元を逃げ去ろうとするのに、内なる良心の声と悪魔の声との葛藤に悩んでいる。その葛藤をオーバー・アクションで表現することで、見ていてよく分かるようにしている。

第2幕第3場、5場:ヴェニス、シャイロックの家の一室。

 3場では原作にはない場面が演出される。シャイロックがヘブライ語の祈りの歌を唱えながら外出先から戻ってくる。ジェシカは浄めの水を入れたボールを父のために用意している。シャイロックは手を浄めた後、ジェシカの唇に口紅が塗られているのに気付いて、それをぬぐい取る。

 シャイロックがユダヤ人として規律を守っている姿をはっきりと演出し、父親としての厳格さを表していて、ジェシカの父親への反発の伏線を感じさせる。

 シャイロックがバッサーニオに食事に呼ばれていやいやながら出かける際に、ジェシカ向かって‘Fast bind, fast find’(「しっかり締める、しっかり貯まる」松岡和子訳)という時、ジェシカも父親に合わせて唱和する。これなどもジェシカが厳格に育てられたことを伺わせるのに十分である。

第3幕第3場:ヴェニス。シャイロックの「人間宣言」の場面。

 テユーバルからアントーニオの破産の知らせを聞いたシャイロックの異様な喜びように、テユーバルは思わず後ずさりをするほどに驚き、あきれる表情をする。シャイロックが、ユダヤ人仲間の中においても人間性を異にする存在であることを印象づける。

第4幕第1場:ヴェニス、法廷の場。

 裁判に負け、屈辱にまみれたシャイロックが法廷を去るとき、アントーニオにすれ違いざまに彼のヤムルカ(ユダヤ帽子)を手渡す。アントーニオは困惑した表情で受け取るのを拒むような仕草をするが、やむなく受け取ってしまう。これは今までにない演出で、非常に新鮮な驚きを感じた。この動作、所作に言葉以上の深い意味を感じさせる。それは感じる者に対していかようにも解釈を拡げられる。

 命ともいうべき財産を奪われたのみならず、その魂のよりどころであるユダヤ教からキリスト教への改宗を強いられたシャイロックの心痛を、アントーニオはその手渡されたヤムルカに感じて、自分の罪悪感に襲われて怯んでしまったように思える。

 このことに関しては、アフター・パフオーマンス・トークで、シャイロックを演じたイアン・バーソロミューの興味深い発言がある。この『ヴェニスの商人』の公演を始めた頃には、実はこの所作はなく、始めたのは4,5週間前ぐらいからである。それも受け手のアントーニオ役のイアン・ゲルダーには相談もなく、いきなりやったということである。ゲルダーがどのような反応をするかという意外性と、ゲルダーならそれに十分答えてくれるという内心の確信があってやったということである。演出者のラブデイには事前に相談はしていたということであるが。

 興味深いのは、公演を重ねることによって、このような変容が生じるという面白さである。

☆日本語版プログラムに、ポーシャ役のハーマイオニ・ガリフォードのインタビューがあるが、その中で非常に面白いことを指摘している。

 <当時、17世紀エリザベス朝のイギリスでは反ユダヤ主義がとても強く、当時の芝居ではこういうユダヤ人の扱いは当然だった。シャイロックを改宗させるというのには二つの意味があると思う。一つはシャイロックに対し、彼らは完勝したということ、もう一つは改宗によって彼は救われたという見解。当時の考えとして、彼は死ぬときにキリスト教徒の名において救われる。もうひとつの大事なことに、シェイクスピアはカトリックだったという説がある。当時のカトリックもプロテスタントに改宗を強いられる。従って強制的改宗の持つ意味を深く理解していたと思う>

第5幕第1場:ベルモント、ポーシャの邸の前。

 ここでは、ジェシカの態度と表情が問題になる。ジェシカは音楽について、

 「甘い調べを聴くと決まって哀しくなる」(松岡和子訳)

 と言って、音楽の途中、ヘブライ語でなにやら哀しい歌を口ずさんでうつぶしてしまう。

 この衝動は何処から来るのだろう?!なぜ、音楽を聴いて、彼女はヘブライ語で歌を歌い出したのであろう?このことについては、観客に多様な解釈の余地を残しているように思われるが、解釈を超えて心に感じるものが大きい。その心に感じることが大切なのだと思う。

 父親からの遺産相続の証書を見ても、ジェシカは一向に嬉しそうな表情をしないだけでなく、むしろ悲しげな表情をしている。このことは、不在のシャイロックの存在を強く印象づけるという効果をもたらす。この悲しい表情は、父親の不幸を思って嘆いているというより、自分の未来に対する不安を抱いているように思われる。

 第4幕の強烈な印象を与える法廷の場面から一転して平凡なシーンに思われる第5幕を、単なる詩的な雰囲気の大円団で終わらせるのではなく、ジェシカの不安げな所作と、アントーニオがたった一人舞台に取り残されるということで、彼の孤独と疎外感を印象づけ、観客の心に深い余韻を刻みつける。

(演出/ラブデイ・イングラム、東京グローブ座にて、6月22日夜観劇)


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