高木登 観劇日記
 
 『マクベスの妻と呼ばれた女・2002』    No.2002-013

〜 「マクベスの妻には名前がない・・・」 〜

 マクベス夫人には名前がない。これだけ強烈な印象を持つ女性であって、しかも名前がない、というのは考えてみれば不思議である。この作品はシェイクスピアを遊びながら、その「名前を持たないマクベス夫人とは何か」を追求するという大胆な発想から生まれた、女の側から見た『マクベス夫人』の物語である。

 シェイクスピアを遊ぶといったその理由は、この作品に登場する登場人物の名前の付け方にある。このマクベス夫人には、乳母役の侍女デズデモーナと若い侍女オフイーリアが仕えている。マクベス夫人の女中達の名前が、女中頭のヘカテイ(『マクベス』に登場する魔女)をはじめに、ポーシャ(『ヴェニスの商人』のヒロイン)、クイックリー(『ウインザーの陽気な女房たち』などに登場)、ケイト(=キャタリーナ、『じゃじゃ馬ならし』のヒロイン)、ロザライン(『恋の骨折り損』に登場)、シーリア(『お気に召すまま』の登場人物)ら5人、そして門番の老婆の名前がジュリエット(彼女の夫の名前はロミオだが、劇中には登場しない)というシェイクスピア作品でおなじみの登場人物のオンパレードとなっている。それだけでも結構楽しい期待感をはずませる。

 女中頭のヘカテイら女中6人は、コーラス役でもあり、「きれいは汚い、汚いはきれい。光は闇、闇は光」の呪文を唱える役もする。女中達は国王ダンカンの殺人犯を推理し、仕掛けの罠を張って犯人を追求していく。7人の子持ちのクイックリーは初め、身の安全を図ってそのグループには加わらないが、途中考え直して参加する。千うららのクイックリーの個性的存在感が強く、劇の雰囲気を丸くする。

 マクベス夫人があやしいとにらんだヘカテイは、夫人に名前を尋ねる。しかし、夫人には答えられない。そんなことなど考えてみたこともないのだ。父親には良き子として、夫には良き妻として仕える貞女の鏡のような存在のマクベス夫人には、<個>としての存在がない。自分というものがないから、名前などないのだ。

 ダンカン王殺害の罪の意識も、マクベス夫人には縁がない。その罪の意識に苦しむのは、侍女のおフィーリアである。オフイーリアは、マクベス夫人がダンカン王の殺害現場から血痕のついたローブを着て戻ったとき、その衣裳を焼却処分する。その罪の意識の重さで、夢遊病者となって夜中に城中をさまようようになる。ヘカテイの手引きでその場に居合わせるマルカムと医師は、オフイーリアの罪の告白を聞いてしまう。オフイーリアの発狂の場である。このオフイーリア、登場の初めの場面で、マクベス夫人にたしなめられる場面があり、マクベス夫人から「尼寺へ行きなさい」と言われる。うまい具合に『ハムレット』の本歌取りを織り交ぜているところが心憎い。

 マクベスが倒されたところで、マクベス夫人も後を追おうとする。ヘカテイ、デズデモーナを交えてのやりとりの中で、乳母であった侍女のデズデモーナの台詞がまた暗示的である。マクベス夫人の母は、讒訴でもって罪なくして夫に殺された事実を初めて打ち明けるところは『オセロ』である。マクベス夫人の自害を止めようとするヘカテイとのもみあいで、デズデモーナは、自分の命を落とす。マクベス夫人もその後を追うようにして自害する。

 そこへマルコム王子の兵士がやってきて、マクベス夫人には罪がなくその身の安全の保障を告げるが、時すでに遅しであった。「マクベス夫人こそは貞女の鏡」、と仰がれようとするのをヘカテイは急いで否定する。もしここでマクベス夫人を貞女とすれば、これから先、すべての女性が負うことになる重みを思ってのことである。ヘカテイはマクベス夫人を悪女とすることで世の女性は解放されるのだと、宣する。

 6人の女中達は再びコーラス役となって、「きれいは汚い、汚いはきれい。光は闇、闇は光」と声高に叫ぶ。

 名前のなかった女の不幸...!!

 

(作/篠原久美子、演出・美術/山本健翔、シアターXにて、5月3日観劇)



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