高木登 観劇日記
 
  笛田宇一郎事務所公演 『ハムレット/臨界点』 No.2002-011

21世紀演劇Vol.3 笛田宇一郎の演劇論を舞台で身体化して体現

 「ああ、このあまりにも硬い肉体が崩れ溶けて露と消えてくれぬものか!」の台詞で、笛田宇一郎の『ハムレット/臨界点』は始まる。だがそのあとに続く台詞は、途中から劇の順序も錯綜し、次第に『ハムレット』からも外れていく。ハムレットであり続けることの不可能性。

 臨界点とは、極限のバランス上にある状態で、その一線を越えると崩壊する。ハムレットの存在は、いうなればその臨界点の極限状況でのありよう、とも言える。そのバランスをかろうじて支えるのが、「私は、ハムレット...だった」という自己の仮面化による逃避。ハムレットであり続けることはできない。

 笛田宇一郎のハムレットは必然的にハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』とならざるを得ない。笛田は叫ぶ。「私はハムレットだった。浜辺に立ち、寄せては避ける波に向かってああだこうだと喋っていた...鐘の音が国葬を告げていた...高貴ななきがらを納めた柩の後から国会議員たちが分列行進する...人殺しは寡婦と交合(まぐわ)った、叔父さん、上に乗る手伝いをしてあげようか、ママ、股をひろげなよ」と『ハムレット・マシーン』の台詞が続く。そして、詩「夢の森」の「昨夜 夢でどこかの森を横切った」という森のモチーフが繰り返し語られる。

 笛田の舞台は、彼の演劇論の体現化に他ならない。彼は何よりも<身体性>を強調する。彼のいう身体性とは、舞台と観客席を含む劇場空間を、彼の肉体との距離感をなくした状態をいう。劇場空間が彼の肉体の延長にある状態を<身体性>と呼ぶ。

 笛田の演技は、例によって様式化された所作である。一挙一動が求道者のようなストイックな所作でもある。足の運び、手足の指の一本一本の動きが、言葉の台詞以上の重さをもって語りかけてくる。沈黙すらが、饒舌でもある。寡黙から饒舌になるとき、諧謔的表現が目立つようになる。「老婆が微笑んで食事をしながら脱糞する」というような尾籠な表現をあえて好んで口にする。

 この劇は、笛田の<二十一世紀演劇>と銘打ったシリーズの第三弾である。縁あってその1回目の『私は「リア王」』、第二弾の『グッバイ・二十世紀(マクベス)』と、この第三弾のすべて観る機会を得た。笛田の求めるところは、二十一世紀のありうべき演劇の可能性を探る試みである。

 舞台は、笛田と戸田裕大の二人だけで演じられる。笛田の演技が求心力なら、戸田の演技は遠心力の働きをする、と言えよう。戸田が凝固した姿勢を保持する演技力と体力は、相当のものである。

 演劇論という演劇の原液を飲ませるような舞台で、ある種の緊張感を伴う快感ともいうべき味わいがある作品である。

 

(構成・演出/笛田宇一郎、お茶の水・FREE SPACE カンバスにて、4月18日(木)夜、観劇)



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