高木登 観劇日記
 
  夜想会第27回公演 『ジュリアス・シーザー』 No.2002-010

威風堂々、原田大二郎の絢爛たるシーザーに酔う〜

 開幕から心が浮き立つような期待感を抱かせる雰囲気が満ちている。幕が上がると、白い砂の盛り土に、墓碑のようにして突き立てられた短剣が舞台中央の前面に見える。シンボリックな舞台。悲痛で哀れみ愛おしむような声が「シーザー」と遠く叫ぶのが聞こえてくる。その悲痛な叫び声が、次第に群衆の歓呼の「シーザー」という叫び声へと変わっていくとき、第1幕第2場からその舞台が始まる。

 スケールの大きい感動的な舞台である。シーザーを演じる原田大二郎が、圧倒的存在感の印象を強烈に与える。そのスケールの大きさは、シーザーが暗殺された後にも重く存在感として舞台を支配し、劇的効果を高める。

 上杉祥三が演じるアントニーのシーザー追悼演説も圧巻の見せ場である。ここでは、群衆の心を惹きつけるのに観客をして納得させるだけの弁舌が要求される。「公明正大な」ブルータスと繰り返すことで、巧みに群衆の心理を掴んでいく。上杉祥三の弁舌の演技力にものをいわせる場面である。

 ブルータスを演じる宮内敦士は、ハムレットを彷彿させる。98年8月、夜想会第22回公演で、彼はそのハムレットを演じている。「高潔な」と形容されるブルータスの役は、その彼にうってつけの役に思われる。ブルータスがローマの武人らしく最後を遂げる時、その崇高な高貴さが胸に伝わり、心が震え、感動の涙に誘われた。その高潔な死体が、勝利者の側の手で運ばれた後、シーザーを刺し、ブルータスを自刃させた短剣が、白い砂の盛り土に突き刺され、舞台の幕が降りる。

 初めに感じたシンボリックな表象が、今鮮明に甦ってくる。白い砂の盛り土に突き刺された短剣は、偉大な支配者シーザーの墓碑であり、高潔な士、ブルータスの墓碑でもあったのだ。

 日本ではどういうわけか、この『ジュリアス・シーザー』の上演はあまり見られない。僕の観劇ノートでも、見ているのは海外の公演ばかりになっている。パナソニック・グローブ座(現東京グローブ座)で、94年にデイヴィッド・サッカー演出によるロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演、95年にアレクサンドル・ダリエ演出、ルーマニアのブランドラ劇場公演、そして2000年に、デイヴィッド・ラン演出、ヤング・ヴィック・シアター・カンパニー公演の3つである。その数少ない観劇記録の1ページに、野伏翔演出の素晴らしい舞台を加えることができたのは、貴重な喜ぶべき慶事であった。

 シェイクスピアの舞台で素晴らしいと思える上演は、それなりに多く出会ってはいるが、感動で涙を誘う上演はそれほど多くはない。夜想会の公演は、『ハムレット』、『十二夜』に続いて、3作しか観ていないが、野伏翔の演出力の技量を強く感じさせるには十分である。

 久しぶりに感動で胸一杯になって劇場を後にした。

 

(作/W・シェイクスピア、訳/小田島雄志、演出/野伏翔、4月14日、紀伊國屋ホールにて観劇)



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