高木登 観劇日記
 
  追記・雑話 〜蜷川幸雄の「ハムレット」から〜

蜷川幸雄X市村正親の「ハムレット」のテーマ性は何であろうかと考えていたが、うまく掴みきれない。

蜷川は、劇は最初の3分間が勝負だということで、いつものことながら、開演直後は緊張を感じさせる。今回は、バナードやマーセラスの登場を舞台ではなく屋上の回廊からさせるので、暗い舞台に人は見えず、声は観客席の遙か後方から緊張した声で響いてきて、観る側の体を一瞬こわばらせる。

天井から舞台床下まで張り巡らされた有刺鉄線の冷たい銀色の光は、有機体を阻害する無機物質の異物感を感じさせる。この有刺鉄線が舞台上で生きた働きをするのは、ハムレットが母ガートルードの居室に入ってくるときである。

ハムレットは、赤い紐の束を手にして登場し、その紐を張り巡らされた有刺鉄線に巻き付け、囲いを作っていく。ガートルードは赤い紐の囲いの中に閉じこめられたようになり、象徴的意味を感じる。

一番気になるのは、市村正親のハムレットである。ハムレット像が掴めない。舞台を観ている間は、市村のハムレットに釘付けされているのだが、見終わって、さて、このハムレットは?と考えると何も浮かんでこない。

もともと僕は観劇直後というのは興奮して、劇の感想を適切に表現することが出来ないことが多い。

劇の感想を書こうとすると、2,3日、場合によっては1週間もしないと何も書けないことすらある。そうすると、肝心なことを含めて余分なことは、あらかた忘れてしまう。残った感想は、気分昂揚で蒸留揮発された感情だけが記憶に留まる。その感情の記憶を便りに観劇日記を書くのが大体の僕の姿である。

そういうことで、市村正親のハムレットは、蒸留揮発して消えてしまった方である。

そんなことで色々考えてみて、記憶に残るのは、舞台の有刺鉄線と裸電球である。これは空間の舞台装置である。蜷川幸雄の舞台は、垂直軸のイメージ造形に特色があるが、この度も例外ではない。ハムレットという有機体が、無機質な物体に置換されて、あとは情念のうねりとして裸電球が活躍する。主役の交代である。

蜷川幸雄の「ハムレット」で、ピーター・ブルックの「ハムレットの悲劇」を思い出していたら、鈴木真理さんのメール通信で、最近のロンドン公演の劇評紹介があり、興味深かった。

メールの内容をそのまま引用させてもらうと、

<Bard cutto the bone Peter Brook's chopped, changed and truncated Hamlet is not quite as sharp as it should be . By Benedict Nightingale, The Times,8月24日>

<小さな劇場で配役のダブリングも多く、フォーテインブラスも登場しないため、ハムレットの劇としてのスケールも非常に小さくなってしまっている。最初の宮廷シーンをハムレットと亡霊の出会いの後に置いたため、父暗殺の事実を知る前のハムレットのアンニュイが伝わってこない。To be speechをイングランド出立の時に移したのは問題である。こうしてしまうと、なぜ復讐を遅らせるのか、第2幕でクローデイアスを殺す機会を見送ったのはなぜか、なぜ亡霊が再び現れ復讐を促すのかの答えがみつからない。圧縮されたスピード感のある演出により、この劇の持つ激しさが伝わってくることは評価しています>

どちらかというと否定的評価であるが、タイムズのナイテインゲール氏は辛口の演劇評論家で、蜷川の「リア王」ロンドン公演評でも<東洋的舞台効果という独自性を持つ蜷川は、ナイジェル・ホーソンを演出するにふさわしい人物でないと感じると同時に、ホーソンのような根っから柔和な役者はリアににつかわしくない>と酷評している。(引用は高橋豊著「蜷川幸雄伝説」p.23より)

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