高木登 観劇日記
 
  劇団扉座公演・『フォーテインブラス』&『ハムレット』

〜どちらから観るか、それが問題だ〜 

劇団扉座創立20周年企画、『フォーテインブラス』と『ハムレット』の同時連続上演を新宿・紀伊國屋ホールで二日続けて観た。

劇団のチラシのキャッチコピーには、「どちらから観るか、それが問題だ」とあったが、僕はどちらも初日を選択した結果、『フォーテインブラス』を先に観ることになった。

『フォーテインブラス』は、90年(当時・善人会議)に劇団主宰者横内謙介が書き下ろした作品で、95年にはスマップの草g剛主演でオリジナルスマイルバージョンが上演され、今回はその前2回の上演をもとに全面改定した決定版として、同時上演の『ハムレット』の合わせ鏡のようにした上演である。

意外なことに『ハムレット』の上演は、劇団扉座として主宰者横内の作品以外では初めての作品ということである。

劇団を20年継続するということは並みならぬ事だと思うが、根強いファンがいるのだろう、その20周年を記念して、『扉座の本 OPEN THE DOOR 善人会議/扉座20周年記念本』(定価2300円)、CD『テアトルミュゼ―劇的音空間―』(定価2200円)、劇団のロゴ入りTシャツなど、劇場ロビーでの販売が賑わっていた。今回上演の2作品を一緒にした上演台本も当然販売されていた(定価2500円)。

開場されて劇場に入ると、若い劇団員が至る所で「いらっしゃいませ」と元気の良い声で挨拶をしてくれる。この劇団のエネルギーとパワーを感じさせた。

観客も若い人が多く、この劇団がただ単に20年の歴史を持つというのではなく、若者を惹きつける新鮮な何かがあるのだろう。

初日とはいえ平日の夜、紀伊國屋ホールの客席は見渡したところ満席であった。人気のほどが伺えるというものである。

 

★ 『フォーテインブラス』

〜フォーテインブラスの亡霊による『ハムレット』のパロデイ〜

作/横内謙介、演出/栗田芳宏

この劇は『ハムレット』の最終場面惨劇のシーンから始まり、同じく惨劇のシーンで終わる。連続同時上演の『ハムレット』を観れば明らかになるが、この二つの劇は二重の連環構造をしており、お互いに二つの劇が連鎖して終わりのない劇構造となっているかのようである。

『フォーテインブラス』の主役は、フォーテインブラスの亡霊である。

『ハムレット』が上演されている古い劇場で、一度として主役に立てなかった脇役専門の役者が、『ハムレット』における究極の脇役であるフォーテインブラスの亡霊となって、その怨念をハムレットに向けて復讐のために登場する。

最終幕で、同じく『ハムレット』の惨劇シーンが繰り返されて、舞台の循環を予想させるが、開幕時と同じ場面が繰り返された後舞台は暗転し、舞台の楽屋裏場面に戻る。そこで、ホレイーショーの台詞を語った、かつて亡霊の恋人でもあったその古い劇場の古参女優が楽屋で死んでいるのが発見される。その報告と同時にフォーテインブラスの亡霊の甲冑が舞台上方からドサリと落ちてきて、舞台は連環の鎖を断ち切られて終わる。

亡霊とその古参女優の死で、フォーテインブラスの怨念、というより陽の当たらなかった役者の怨念が、その古い劇場から解放されたことをも明示する

物語の外枠は以上のようなものであるが、その中身は徹底した『ハムレット』のパロデイである。というより、ハムレットを徹底的にパロデイ化したものである。

ハムレット役は落ち目の大スター。オフイーリア役には、芝居は初めてというタレント。レアテイーズ役は、大スターの先輩の友情出演で、大スターもこの人物の前ではただただ卑屈に恐縮するだけだが、その他の劇団員の面々に対しては、傲慢に威嚇し威張り散らす。しかし、この大スターと友情出演の先輩の二人は、舞台の上手も下手もその言葉すら知らず、うわ手、した手と言っては劇団員を右往左往させる始末である。

ハムレットの演技はおよそオーバーアクションで、衣装といえばキンキラキン。悩める懊悩の姿は、柱に頭突きをして額から血を流すという意味不明の行動をとる。

このパロデイの意味するものは、劇の主役を生かしているのは、端役に過ぎない脇役の役者であるということをも示している。

だが、フォーテインブラスの亡霊は、主役の夢が捨て切れていなかった。だから、この劇中劇の『ハムレット』でオズリック役を務める実の息子を認知せず、フォーテインブラス役の役者を息子として扱い、ハムレットへの復讐を強いる。

重要なことを述べていなかったが、実はこのフォーテインブラスの亡霊は、先のデンマーク王ハムレットと一騎打ちの試合で敗れた先代フォーテインブラスである。それゆえ息子のノルウエー王子であるフォーテインブラスに、自分の復讐をしてくれと頼むのである。

しかしハムレット王子と異なり、フォーテインブラスは正当な戦いで敗れたのであり、復讐というのは理に合わない、と実の息子は諭すが亡霊には理解できない。

この亡霊と実の息子の関係も舞台では複雑な様相を呈している。

フォーテインブラスの亡霊として現れた役者の父は、この古い劇場の女優と互いに主役をやれることのないという負け犬の傷を舐めあって愛し合い、息子と妻を省みることもなく家にも帰らず過ごし、そのまま死んでしまった。しかし息子は家人としての父を恨んでもいるが、一方では役者としての父を尊敬しており、いつか自分も父と同じ劇場の舞台に立ちたいと願っていたのが、今こうして脇役ながらオズリックという役を得て舞台に立つことが出来た。息子は、端役が頑張ることで舞台が活き、どうしようもない主役でも生きてくるのだという信念を持っている。

フォーテインブラスの亡霊は、そんな現実への直視ができない。その逃避の姿が虚構の事実の息子、ノルウエーの王子フォーテインブラス(実際はその役柄)を我が息子と呼ばしめる。

この劇はポローニアス風に言えば、フォーテインブラス(の亡霊)の喜劇的悲劇、悲劇的喜劇である。そしてその面白さは、『ハムレット』との入れ子的構造にある。

 

★ 『ハムレット』 〜『ハムレット』から『ハムレット』へ 〜

作/W・シェイクスピア、翻訳/井上 優、上演台本・演出/横内謙介

『フォーテインブラス』が『ハムレット』の入れ子構造としての面白さを持つ時、劇中劇の茶番ハムレットが、本番『ハムレット』でどのようなハムレットとなって現れるのか、興味深いところである。

佐藤累央演じるハムレットは、一口で言えば<絶叫>ハムレットである。独白の台詞も質量的には絶叫である。このハムレットは変容の過程がなく、一直線に破滅へと向かっていく。

この『ハムレット』が『フォーテインブラス』の入れ子構造、合わせ鏡であると書いたが、それはキャステイングにおいて強く感じるものである。

『フォーテインブラス』の劇中劇『ハムレット』のハムレット役の岡森諦は、本番『ハムレット』ではクローデイアスになっていて、単に二つの劇にまたがっての二役であるが、二番続けてみると、前夜のイメージが残像として現れてくる。

オフイーリアは、『フォーテインブラス』では、舞台が初めてというタレントの設定であるが、この『ハムレット』では、文字通り初舞台の新人南奈央を抜擢採用して、『フォーテインブラス』の設定を文字通り踏襲。

道化としての墓掘り、オズリック、フォーテインブラス(亡霊ではない方)の役である六角精児、赤星明光、山中たかシの3人は、『フォーテインブラス』の劇中劇としての『ハムレット』の登場人物を、本番『ハムレット』でも同役を演じる。

つまり、『フォーテインブラス』の劇中劇をそのまま入れ子のように嵌め込んだ形式となっているので、二つの劇が連環構造に思えるのである。

この劇団の自由な若さを感じるのは、旅役者の場である。

ヘキュバの場の朗唱は、この劇団扉座のレパートリーであった(と思うのであるが)『怪人二十面相のために』が演じられる。この劇団のことをよく知っている人は、ここで多いに笑えるところだろう。(もっとも知らなくても想像して笑えたのだが)

上演時間は休憩なしで2時間15分ということで、当然の事ながら相当のカットがあるが、カットで気になったのは、役者達の劇中劇の後でのクローデイアスの懺悔の祈りで、ハムレットは現れない。この場面のカットはこれまで記憶にないので、その意図に興味を覚える。

『フォーテインブラス』を観た後で注目を引くのは、最後の惨劇のシーンにフォーテインブラスが登場する場面である。

このフォーテインブラスに、赤ん坊を抱きかかえた若い妻がそっと横に来て寄り添う。

明日への未来を感じさせる光がある。柔らかな温もりをも感じさせられる。印象的なエンデイングであった。


 

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