高木登 観劇日記
 
  新世紀を飾るピーター・ブルックの「ハムレットの悲劇」

存在の根元への問いかけ、「そこにいるのは誰だ?」 

ピーター・ブルックの「ハムレットの悲劇」は、ホレイーショーの「そこにいるのは誰だ?」で始まり、ホレイショーの同じ台詞で終わる。ホレイショー以外は誰もいなくなってしまう。みんな死んでしまった。ホレイショーは、今まで夢を見ていたのであろうか?今、目の前で起こっていたことは、すべて夢の中の出来事だったのだろうか?ホレイショーの最後の台詞、「そこにいるのは誰だ?」の繰り返しは、この劇が終わりなく続くことを象徴する。ホレイショーは目撃者であり、証言者でもあることを体現するするかのような舞台演出である。

舞台は、<何もない空間>。

平土間に、朱色に近い真紅のカーペット。登場する入口もなければ、扉もない。登場人物は、舞台奥の両脇から、もしくは舞台正面、観客席の両脇の通路から登場する。

忽然とただ一人登場したホレイショーは、あたりを不安げに見回す。舞台は一瞬の間、真空状態となる。そして、ホレイショーは、その沈黙の重さに問いかける。

「そこにいるのは誰だ?」

<不安>は得体が知れないときに極限に達する。不安は亡霊の出現で、<恐怖>に変貌し、真空状態の均衡が崩れる。

時間にして数分にも満たないこの瞬間、観客は息を呑む音さへ聞こえるような静寂の中で、舞台に釘付けとなる。この瞬間に、もう舞台に電撃的にしびれてしまった。すべての感激がこの場から始まった。

「ハムレット」の登場人物は、台詞のある人物だけで30人いる。省略なしで上演しようとすると、現在ではまず4時間はかかるであろう。その「ハムレット」を、ピーター・ブルックは8人の俳優で、2時間半で上演する。そこで当然のことながら、ハムレットの<悲劇>に必要でない部分は大胆にカットされる。フォーテインブラスは、ハムレットの悲劇には何も関与しない挿話だということで、全く登場もしないし、話題にもならない。

2時間半の凝縮には必要なカットだけでなく、場面と台詞の順序の入れ替えもある。その入れ替えは、特にハムレットの独白において効果的になされる。

ハムレットの第1独白、「ああ、堅い堅いこの体、いっそ溶けて崩れ、露になってしまえばいい」も、ホレイショーが亡霊と出会った場面の直後、一人登場したハムレットの台詞として発せられる。この第1独白は、テクストではクローデイアス国王一同が退場した後になされるのだが、その順序も入れ替わっている。

最も有名な第4独白、3幕1場の「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」の台詞は、本来の場面ではなされない。この独白は、ハムレットが英国に送り出される4幕4場の場面(第7独白の場面)でなされる。父ポローニアスを殺されたオフイーリアが、舞台奥を下手から上手へと、今旅立たんとするハムレットの方を寂しげな眼で見つめながら通り過ぎる。そのオフイーリアの姿に触発されたかのように、ハムレットは'To be, or not to be'と独白する。

登場人物を8人で演じることについては、ハムレット、ホレイショー、ガートルード、オフイーリアスの4人は、役の兼任がない。亡霊役はクローデイアスを演じ、ポローニアスは墓堀人とオズリックを兼ね、ギルデンスターンとローゼンクランツの二人を演じる役が一番忙しく、役者1,2(劇中劇の王と王妃)、レアテイーズ、神父、そして貴族(ハムレットとレアテイーズの剣の試合の審判役)を演じる。

この劇を「ハムレット」ではなく「ハムレットの悲劇」としているのは、本来の悲劇性を強調してのことである。

最後、ホレイショーが「そこにいるのは誰だ?」と問いかけるとき、それはアイデンテイテイへの問いかけでもあり、自分の存在を確かめるためのものでもある。みんないなくなってしまった後、ここにいる自分は本当に存在しているかという根元的な問いの響きを持つ。もんないなくなってしまった、みんな死んでしまったということを強調するために、オフイーリアがみんな死んでいる場所にやってきて、そこで一緒になって死ぬことで表象している。

 

ピーター・ブルックの「ハムレットの悲劇」で忘れてはならないのは、音の魔術師、土取利行が紡ぎ出す演劇空間のすばらしさである。

ブルックが<何もない空間>から劇的空間を作り出す演出の魔術師だとすれば、土取は、その劇的空間を<真空状態>に昇華する音の魔術師であろう。

「ハムレットの悲劇」の台詞は、土取利行の紡ぎ出す音によって<息>を与えられる。役者の呼吸が台詞と同化しているように、土取の音楽は台詞の<キュー>の役割を果たしながらも自然と台詞に同化していく。 土取利行の音は、舞台の緊張感のテンションを高める。

感激度:★★★★★ <感激度寸評>新世紀の「ハムレット」誕生。クオート版でもなく、フォリオ版でもない、ピーター・ブルック版「ハムレットの悲劇」という新しいテキスト誕生。

(6月24日、世田谷パブリックシアターにて観劇)「あーでんの森散歩道」より再録、一部修正

 

 

 ミュージカル「恋でいっぱいの森」   No.2001-16

劇団東演は、創立されて42年という。座長笹山栄一は、芸歴50年、今年古希を迎える。そして、この劇団にはその古希を迎えた団員が笹山の他にあと2名いるということである。だがこの劇団、決して年輩者ばかりの黴の生えたような古臭い連中ばかりでなっているわけではない。芝居好きな若い団員で活気に満ちた劇団であるように見える。その劇団東演の活躍の場は、この23年間下北沢の鎌倉街道に沿った住宅街の一角にある東演パラータで続けられている。
下北沢といえば、本多劇場をはじめとして、小・中劇場のメッカともいうべきところだが、この東演パラータは、その一角からはずっと離れた場所で、こんな所に劇場が、というような場所にある。今回は初めてでもあり、また自由席ということもあって、場所探しの時間と、いい席を取りたいということで開演より1時間前に着いた。
この劇団については、チラシを見るまでは不勉強で全く知らなかったのだが、この「恋でいっぱいの森」が、シェイクスピアの「夏の夜の夢」、「から騒ぎ」、「お気に召すまま」の3本を一緒にしたミュージカル、それも福田善之台本・演出ということで、大いに食指を動かされた。
この劇団については、この劇「恋でいっぱいの森」のプロローグで、オーベロン役を務める座長笹山栄一の口上で知ることが出来た。その口上を聞いていると、本当に芝居を愛しているという気持が伝わってくる。
今回の「恋でいっぱいの森」はミュージカルだが、この劇団はもともとストレート・プレイを専門としていて、ミュージカルを本格的に取り組むのはこれが初めてとのことである。確かにその点では、全員が歌も踊りもうまいというわけではない。しかし、非常にそれを越えた楽しい劇である。

第一部(1場)はまず「夏の夜の夢」、ハーミアとライサンダーが駆け落ちする相談のところから始まる。そしてハーミアに横恋慕するデミートリアス、そのデミートリアスに片思いのヘレナを合わせた4人が、アテネの校外の森で、妖精パックのいたずらから繰り広げられる恋のドタバタ劇。
第一部の2場は「から騒ぎ」。ここでは何と言っても、ベネデイックとベアトリスの機知の競演と、二人が恋の罠にはまるところが見せ場である。なんとこのキャステイング、ベネデイックに60歳を越している(と思うのだが)小高三良を配している。ベアトリスの河野あや子は20代(?)と若い。歌も踊りもうまいとは言えない小高三良が実に溌剌と若い演技をするのがみもの。恋人役が若いから、余計にはりきっちゃうのかも。「から騒ぎ」は、ヒーローが悪巧みのためにクローデイオとの結婚が破談になり、失神する場面(公にはここで、ヒーローは死んだことにされる)で第一部終了し休憩となる。
第二部(3場)は「お気に召すまま」で始まるので、「から騒ぎ」の結末が中途半端で落ち着かない気持にさせられるが、この3つ劇の最後は、<結婚>という大円団で締めくられる共通点を持っており、そこで無事めでたくそれぞれが幕を閉じることになる。
この劇全体の演技で光っていたのは、妖精パックの久瀬新子。その軽やかな動きで演技賞。そして、ベネデイックの小高三良は年より若い好演賞。

感激度:★★ 感激寸評:終わりよければすべて良し、楽しく拝見!

(台本・詞・演出:福田善之、劇団東演第116回公演、東演パラータ)

 

 

 
  新世紀「テンペスト」、映像が誘う音楽の魔術

 舞台はシンプル。だが、舞台背景を使って、一面スクリーンの画面となり、平面が3次元的立体の世界となる。そして、無国籍の音楽によって、舞台は4次元的世界を創造する。
  「テンペスト」の始まりは、衆知の通り海上の嵐の場面から始まる。雷鳴と稲妻。水夫たちの狂おしい叫びと喧噪。そして激しい波の音。ジェイムズ・マクドナルド演出の「テンペスト」は、そんなこれまでの「テンペスト」とは少し趣を異にする。舞台中央の背景に、小さく丸く、地球のような円の中に、波静かな海上の様子が映し出される。平穏で、何事も起こらないような、穏やかな海である。その円が突然拡散され、たちまち嵐の海に変容する。
  舞台は一面、そのままスクリーンの画面と化して、荒れ狂う海の姿となる。床舞台は全面白布で覆われ、布の揺れ動きが荒れる海の波を表す。
  映像と一体となって、その波が客席のこちら側まで押し寄せてくるような印象を与える。船のイメージは、その背景の舞台が2段構造となっており、上段が船の甲板となり、ナポリの公爵一行と水夫たちは嵐の海に右往左往する。 その上段は床舞台と垂直でなく、スロープ状となっている。船がいよいよ難破して、一行が海に投げ出されると、その上段のスロープを滑り落ちていき、あたかも海の藻屑と消えるかのようである。そして舞台平面まで落ちると、舞台前面まできて、荒れ狂う波を表象した白布を全員でまくり上げ、それをもって退場。
  嵐の後は、スクリーンは海に変わって、空を映し出す。マクドナルドの「テンペスト」は、<光>と<映像>で新鮮な幕開けをするが、さらに決定的な特徴は

 <歌>と<音楽>である。シェイクスピアの台詞にはリズムがあるが、そのリズムを<光>と<音楽>というリズムで相乗効果を出しているのが、この舞台の特徴である。歌=コーラスは、男3人、女3人の6人のメンバー=<妖精>で和唱される。この音楽はジャズ風でもあれば、ロック風でもあり、アフリカの民族音楽のようでもあり、東洋的な音楽でもある。要するに無国籍的音楽のリズムである。
  全体を通して感じるのは、この妖精たちによる音楽の印象の強さである。時には歌であり、時にはハミングだけのようでもある。プロスペローの魔法というより、この妖精たちが紡ぎ出す雰囲気の方がより魔法を感じさせる。この妖精たちは、空気の精であり、水の精であって、実体を備えない存在であるが、その歌=コーラスによって、濃密な存在感を示す。

私の感激採点評 ★★★ (感激寸評:映像のイメージを使った演出と音楽のコラージュに感激)
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー公演、東京グローブ座にて、5月27日観劇

 

 

  誰もがシェイクスピアを好きになる「ウインザーの陽気な女房たち」

芝居は面白くなくっちゃ、という人にはおすすめ。シェイクスピアを知らない人でも、これを観ればシェイクスピアって面白いんだ!とまず思うだろう。シェイクスピアを知っている人は、シェイクスピアってこんなに面白いんだ、と思うだろう 。
舞台はのっけから衝撃的に楽しい。開演とともに、出演者が四方八方、縦横無尽に走りまくって、現れては去っていく。
観客席の階段通路を自転車に乗った役者が舞台に向かって疾走して駆け下りてきて観客を驚かせ、喜ばせてくれる。
彩の国 さいたま芸術劇場小ホールは、舞台が盆の底状になっていて、観客席がすり鉢状にせり上がっている。
そう、観客は舞台を見下ろす形になっている。舞台は一面みどりいろ。ところどころ丘状にやわらかな起伏を作っている。
江守徹が演じる巨漢フォルスタッフ。大酒飲みのほらふきで、好色で、大言壮語で、その実、大の臆病者。そんなフォルフタッフを、憎めない愛嬌ある人物として堂々(?!)演じている。脇役人が豪華。ガーター亭の酒場の亭主は、人をはめるのが好きで、何でも知ったかぶりのはったりやを、ちょっとドスが利いて、斜めに構えた感じの山本龍二が演じる。ウエールズの方言まるだしの牧師兼グラマースクールの教師を、木場勝己がズーズー弁で演じる。今回、蜷川幸雄に代わって演出を担当した鴻上尚史は、シェイクスピア初演出。彼のロンドンでの演劇学校留学体験で感じた彼自身の自信を示すに十分な、のびのびとした躍動豊かな、またひとつ新しいシェイクスピアが生まれた。

(5月26日、彩の国さいたま芸術劇場小ホールにて観劇)

 

 

  AUN・第3回公演 「リア王」を観る

昨年1月、AUN第2回公演の再演である。初演を見逃しているので比較はできないが、今回はキャストの客演も増えて一段とパワーアップされての再登場のようである(劇団チラシの案内から)。

舞台奥両脇の紗幕の内側でミサの香が焚かれ、フードを被った修道士らしき姿が入れ替わり香を仰いでは立ち去る。開演までの10分間以上、オラトリオを背景に静かにそれが繰り返し続く。開演までは静かな時の流れであるが、開演とともに舞台は小気味よいテンポで進行する。舞台奥は、2枚の回転扉の構造となっており、登場人物はこの扉を通して出入りし、時には場面をオーバーラップさせて進む。非常にスピードと緊張感を感じさせる。舞台両脇は紗幕が覆い、13名のコロス(女優)が上半身裸形の姿で舞台進行にあわせて妖艶な動きを演じ、時に魔女の猫の鳴き声を思わせる鈴を転がすような声を上げて、舞台緊張の和音を高めている。コロスの妖艶で緩慢な踊りは、嵐の場面で紗幕が落とされるまで続く。コロスは、「リア王」の実場面と並行的に、その内面性の虚の世界を表象する役割を担っているようでもある。舞台を見ていてコロスに目を転じたとき、自分の内臓を見せつけられるような錯覚を抱かせる。紗幕を通して覗くエロスを見る自分に、苦い恥のような味を感じる。リア王にはエロスがない。妻という女の不在、母性の喪失が「リア王」の底流にはあるが、ゴネリル、リーガン、コーデイリアという3人の娘に表現される妻、母性のエロスをコロスがその内臓として抉り出す。コロスの意図については自分勝手の解釈ではあるが、これまでにない斬新な試みといえる。リア王、エドガー、エドマンドの頭は、ラマの修行僧を思わせる剃髪姿である。着衣粗布で、ストイックな感じが出ている。舞台は松岡和子の訳を元に脚色されているが、台本が原作と異なる場面がある。それはグロースター伯爵が反逆のかどでコーンウオール公爵に両眼を抉り出される場面である。コーンウオール公爵は、原作では召使に刺されたのが元で死ぬのだが、栗田芳宏演出の舞台では、妻リーガンによって殺される。演出の意図を感じさせる場面でもある。

休憩なしで2時間30分の舞台がスピーデイに展開する緊張感の高い演出である。

(品川・六行会ホールにて、4月27日(金)観劇)

 

 

  ハムレット 櫻会 vol.8 公演

公演案内のチラシを見たとき、はじめに気付いたのがキャストにホレイショーがいないことだった。もっとも、いないのはホレイショーだけでなく、ローゼンクランツとギルデンスターンもいない。亡霊のキャステイングもない。6人の俳優による8人の登場人物の「ハムレット」である。まず、ハムレット。そしてクローデイアスとガートルード。ポローニアスと、レアテイーズ、オフイーリアの家族。ポローニアス役がフォーテインブラスを兼役、従者をオフイーリア役が兼役し、あわせて8人の登場人物である。この6人は、最後はみんな死んでしまうわけである。残るのは、フォーテインブラスと従者のみ。ハムレットとポローニアスの二つの家族の悲劇、という構造が6人という少ない俳優のキャステイングで鮮明化される。

「ハムレット」といえば、<ハムレット王子の悲劇>のようにまず思ってしまうが、このような構造の演出にかかると、ハムレットの悲劇はその全体の構造の中に含有されているのが見えてくる。これはハムレット一人の悲劇なのか。むしろ無惨なのはポローニアスの家族の死ではないか。ポローニアスがハムレットに殺されなければ、オフイーリアの発狂もなく、死もない。レアテイーズも無益にハムレットと争う必要もなく、復讐の刃が自分の身に返って命を落とすこともなかった。ハムレットの復讐のための生贄となってしまった不幸な家族である.To be,or not to be.の台詞は、「やってしまうべきかどうか、どちらが男らしいか」というように訳された。この訳にもその一端が伺えるが、6人という小人数と、全体で1時間50分という凝縮された上演時間の演出を可能にするため、台詞の多少の翻案や附加がある。当然省略はそれ以上に多いが、全体としてはしっかりした構築で、シンプルで分かりやすい演出である。

劇の始まりの印象は、シェイクスピアとだいぶ違うのではないかという気がしたが、全体の流れでは大筋において原作に忠実といえる。キャステイングのない亡霊も、ハムレットの台詞を通して登場するし、ホレイショーや、ローゼンクランツとギルデンスターンも、他者の台詞を媒体にして登場する。また役者達による劇中劇も行われる。ハムレット、オフイーリア、クローデイアス、ガートルード、ポローニアスは観客席に向かって劇中劇を観る。佯佯役者達の演技の進行は、オフイーリアがハムレットに、その演技の意味内容を質問する形で窺い知ることができる。ハムレットを演じる貝塚秀人は、熱演である。感情の起伏の激しいハムレットを、驚愕で恐れおののく姿、佯狂でポローニアスやクローデイアスを煙に巻く演技などは、好演である。ポローニアス役の小山陽一も奮闘。

全体として、ストレートプレイにふさわしく、全員が台詞を大事にしっかりと語っていたのが好ましい。


(構成・台本・演出/沢田次郎、中野区・櫻会スタジオにて、4月20日観劇)

 

 

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