高木登 観劇日記-2001年の観劇日記から-その1
 
 今年の観劇日記から-その1

今年もそろそろ余すところあと1ヶ月となり、僕の観劇回数も12月の予約分を含めると100本を超すことになる。シェイクスピア関連は34本を数えることになるが、そのうち「ハムレット」とそれに関連した作品の数は9本である。

1月 劇団四季による「ハムレット」(下村尊則)

2月 シェイクスピア・シアターによる「ハムレット」(吉田鋼太郎)

3月 木山事務所公演「仮名手本ハムレット」

4月 櫻会公演「ハムレット」(貝塚秀人)

6月 ピーター・ブルックによる「ハムレットの悲劇」(エイドリアン・レスター)

8月 劇団扉座による「フォーテインブラス」「ハムレット」(佐藤累央)

9月 蜷川幸雄による「ハムレット」(市村正親)

10月 劇団NLTによる「くたばれハムレット」

ハムレットを素材にした作品を除けば6本ということになる。

★大場建治の蜷川幸雄「ハムレット」批判に対して

「ばーなむ」734号(2001.11.21)の<学習メモ>で、<蜷川幸雄「ハムレット」で、大場建治氏「エンデイングは半世紀古い」>という批評を紹介されていた(早川書房刊「悲劇喜劇」12月号より引用)。

蜷川幸雄の「ハムレット」についてはすでに僕の観劇日記(10月3日付け)でも触れているが、この大場建治氏の批評に対して自分の感想と対比して振り返ってみたい。

まず大場氏も強調されているエンデイングの問題であるが、ベルイマンのエンデイングの二番煎じと僕もがっかりしたのだが、観劇日記でも書いたように、蜷川は9月11日のアメリカのテロ事件で「芝居が現実に負けてしまう」と思って、テロとも報復とも解釈できる殺戮の場面を新に付け加えたという。これは安易な逃避とも言えよう。もっと別な表現をとって欲しかったとは思うので、大場氏の批判には同意できるし賛同もする。

小ホールでやる以上濃密な演技空間を蜷川に期待したのを裏切られたことに大場氏は憤慨している。しかし、さいたま劇場の小ホールは観客席こそ285席と少ないが、舞台空間は小さいとは言い難い。また蜷川は小さい空間を大きく使う事を得意としてきているので、大場氏の期待はずれとは言えてもこの批判はあたらないと思う。

大場氏は大劇場向きのバブルの視覚効果を小ホールに持ち込んでいる事に対して痛烈な批判を加えているが、中越司の舞台装置は、神経を表象するような7本の有刺鉄線と12個の裸電球が天井からぶらさっがっているというシンプルなものでバブルの視覚効果とは言えないと思う。しかし舞台空間を大きく使っているという印象は強い。

劇中劇の黙劇については、奇を衒いすぎた感は否めない。小ホールの舞台が観客席のすり鉢状の底にあることから上から見下ろすことを意図したのであろうが、滑車のついた台車に仰向けに張り付いた状態では何をやっているのか全く見えない。大場氏の指摘のように、ただごろごろ、ごろごろ滑り回っているだけの印象しかなかった。

大場氏の批判に一番同意できるのは、市村正親のハムレット。僕も観劇日記の追記で書いたことだが、市村の表現するハムレット像が掴みきれなかった不満が残っている。大場氏は、その発声を取り上げてセンチメンタルで浪花節的ハムレットとバッサリ切り捨てている。僕は大場氏のようにそこまで自信を持って言い切れないが、観ていてフラストレーションの残るハムレットだった。瑳川哲朗のクローデイアスはお馴染みなので安心感があったし、ガートルードも夏木マリの起用はよかったと思う。この二人への評価は大場氏も同じようである。

この度の蜷川幸雄の「ハムレット」は、有刺鉄線と裸電球が僕にとっての主役であったし、印象的でもあった。

大場建治氏の時評で、自分の感想に意を強くする事ができたこともあり、大いに参考となった。

01・11・26

 

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