高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   ベルリーナ・アンサンブル来日公演 『リチャード二世』       No. 2002_021

〜 リチャード二世は永遠なり 〜

 シェイクスピア劇の盛んな日本でも、英国史劇となるとその上演は数えるほどしかないのではないだろうか。
 『リチャード三世』に較べると地味な感じのする『リチャード二世』もその公演はほとんど見受けられないようだ。
 僕がこれまで観た『リチャード二世』は、94年9月に、劇団昴による福田恆存訳、村田元史演出で、藤木孝がリチャード2世を演じたのを観たのが最初で、その後は2000年10月、アルメイダ劇場来日公演、ジョナサン・ケント演出、レイフ・ファインズのリチャード2世、そして2001年7月、子供のためのシェイクスピア・シリーズでグローブ座カンパニーによる田中浩司構成、山崎清介演出で吉田鋼太郎のリチャード二世、このわずか3つである。海外からの来日公演を除けばわずか2作でしかない。そして今回の『リチャード二世』も海外からの来日公演である。
 ベルリーナ・アンサンブルは、1949年に戯曲『三文オペラ』などで有名な劇作家ベルトルト・ブレヒトが、妻のヘレーネ・ヴァイゲルとともに旗揚げした劇団で、ブレヒト亡き後幾多の変遷を経て99年に、現在のクラウス・パイマンを芸術監督に迎えて新体制への転換をはかり、2000年1月には劇場の大修復を終えて、新生ベルリーナ・アンサンブルとして誕生し、このたびは初来日の公演である。
 トーマス・ブランシュ翻案の『リチャード二世』は、歴史の輪廻転生を思わせる演出を生み出す。
 開場して劇場に足を踏み入れて舞台を見やると、上手舞台奥に血を流して横たわる死体。
 その死体はリチャード二世の陰謀で惨殺されたグロースター公。死体の周りを飛ぶハエの音が徐々に高まり、暗転後開演。死体は消え、場面はいきなり第1幕2場のランカスター公爵の邸、ガント公(ジョン・オブ・ゴーント)と故グロースター公爵の未亡人の会話から始まる。
 死体のイメージの残像が残る中で、グロースター公爵夫人の夫を亡くした嘆きは生々しく伝わる。ドイツ語での上演でしかも字幕スーパーなしで、イヤホンガイドもつけずに聞いているのだが、言葉の意味はまったく分からないまでも想像で感じとることはできる。
 トーマス・ブランシュの翻案は、場面の順序の入れ替えと統合、登場人物の整理、配役の組替え、省略があるが、全体としてその政治性がはっきりと見える構成となっている。前半のリチャード二世の暴政より、後半のボリングブルックの王位簒奪(としか思えないような印象)の方が、独裁的で暴力的に感じられる。
 ノーサンバランド伯に強制されて王位を譲らねばならなくなって、身の回りに味方もなく裸同然となったリチャード二世の悄然とした姿からも、その印象は強調される。
 王位を略奪され、ロンドン塔に送られるリチャードに追い打ちをかけるのは、庶民からも憎まれ、見放され、通りのいたるところから、泥のつぶてと空き缶を投げつけられる。
 ボリングブルックの王位即位に反対して、ヨーク公の息子にしてボリングブルックの従兄弟であるオマールは、カーライル司教の反逆の誘いに加担する。そのオマールが、リチャードに投げつけられた泥饅頭で、壁面いっぱいに、'RU for ever'(リチャード二世は永遠なり)と殴り書きするところは、旧ベルリンの壁の落書きを想起させる。
 牢獄に閉じ込められたリチャードの暗殺にやってくるのは、騎士エクストンではなく、彼の叔父であるヨーク公である。リチャードは叔父の手で惨殺され、その死体は王ヘンリー4世(ボリングブルック)のところに運び込まれる。
 リチャードの死体は、透明のビニール袋に包まれ、血の色も生々しく、残酷さを露わにしている。その死体の周りを、開幕と同じようにハエが飛び回り、その音が次第に高まっていって、舞台は暗転し、幕を閉じる。この開幕と終幕の打ち捨てられた死体が、この先、英国史に残虐な爪あとを残す薔薇戦争の始まりを表象する。きわめて政治性の強い演出である。
 この舞台で特筆すべき点は俳優陣の構成である。ベルリーナ・アンサンブルはもともと旧東ドイツの劇団であるが、東西ドイツの統合で当然のことながら劇団員も今や東西ドイツ出身の混成となっている。リチャード役のミヒャエル・メルテンスは西ドイツ出身の俳優であり、ボリングブルックのファイト・シューベルトやガント公のマーテイン・ザイフェルトは東ドイツのスターだった俳優である。
 東西ドイツの演技の方法は、西側が「役になりきろうとする」スタニスラフスキー方式であるのに対し、東側の俳優は「役を見せようとする」批評的演技でブレヒト仕込みであるという。
 残念ながら僕は見ていてそこまでの違いは受け取れなかったが、その演技法の違いによって、リチャードとボリングブロックの対立がより鮮明に浮かび上がるという効果があったのではないかと思う。とくにリチャード役のメルテンスとボリングブロックのシューベルトの個性には、演技を通して強烈な相違を感じさせるものがある。
 王妃イザベルを演じるハンナ・ユルゲンスも台詞の数こそ少ないが、清浄な存在感を感じさせることで印象に残る女優である。グロースター公爵夫人、ヨーク公爵夫人、そして王妃イザベルの侍女の3役を務めるカルメン=マヤ・アントニも、うまくその役を演じ分けながらもコミカルな風合いを発揮して印象深い。
 アヒム・フライヤーによる舞台美術も、シンプルではあるが空間をうまく生かして視覚的に鮮明なイメージを引き起こす。舞台三方を白いパネルの開閉で、王宮、城壁、庭園、議会と自在に変化させる。 また、衣装を白と黒という使い分けによって、リチャード側とボリングブロック側とに分けているので、言葉がドイツ語で分からなくても、はっきりとその対立の構造が区別できるようになっている。また俳優が顔を白塗りにして登場するところなどは、日本の伝統芸能に似通った親近感を抱かせるのも、その特徴のひとつである。
 演出・芸術監督のクラウス・パイマンは、ちょうど同じ時期に東京で『ハムレット』を上演しているペーター・シュタインと、シャウビューネ(ベルリンを代表する劇場の一つ)で一緒に活動した友人の関係である。
 その二人が東京でシェイクスピアの競演をするというのも奇縁であろうし、それを二つながら観て味わうことができるのも大いなる喜びである。
 ペーター・シュタインの『ハムレット』はロシア語による公演だが、シェイクスピアの翻訳としてもっともよいのはドイツ語訳である、とシュタインは言っている。そのドイツ語による『リチャード二世』、ドイツ語はまるで理解できないが、字幕なしで、イヤホンガイドに頼ることなしでも、それなりに楽しむことが出来たのは、演出の視覚的効果が大きく寄与しているからでもあろう。一味違ったシェイクスピアを楽しむことが出来た。


 
演出・芸術監督/クラウス・パイマン、翻案/トーマス・ブラシュ、舞台美術/アヒム・フライヤー
9月15日(日)昼、渋谷文化村・シアターコクーン


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