高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   一人十役で演じる京劇 『リア王』                 No. 2002_020

〜 京劇と現代劇を融合 〜

 前半30分は主演の呉興国(ウー・シンクオ)が京劇の衣装で、様式化した『リア王』を、白髪で長い顎鬚をつけたリア王で一気に演じる。
 20分の休憩後、後半の1時間10分は呉興国が一人で十役(僕にはどう計算しても9人までしか分からなかったが)を次々に、現代劇を融合させた手法で、リア王、ケント伯爵、道化、ゴネリル、リーガン、コーデリア、エドモンド、エドガー、グロースター伯爵を演じていく。
 2幕の一人十役の演技では、演じる役によって物語の展開が入れ子構造になったり、登場人物によってストーリーが後戻ったりして、その人物の位置付けが明示されるような形式を取っている。
 従ってシェイクスピアの『リア王』を知っているものには、全体の構造と部分の関わりが分かっているのでそれなりの面白さも感じられる。が、裏返して言えば、『リア王』をまったく知らないものにとっては、捉えどころがないように思われるかも知れない。
 役柄は衣装の着替えでなされるが、それは歌舞伎の早変わりとは違って、むしろ緩慢ですらあるように思える。役柄の変化は、むしろ台詞を発する声の調子の変化にその面白みがある。
 舞台の四隅には、四天王像を思わせる首のない立像が据えられている。
 そのうちの3つの立像は、四天王像の激しさというよりギリシア彫刻を感じさせる柔らかさがある。
 この4つの立像が、リア王の念力によって生じる雷光と電磁波の嵐で終わる1幕の最後に、ドウッと倒れる。
 奥に倒れた二つの立像は折れ重なり合って、2幕では嵐の中の避難小屋=洞窟のイメージを作り上げ、グロースター伯爵が身投げを図るドヴァーの崖をも表象することになる。
 「私が私であることは、すごいことだ」というリア王の台詞は、アイデンテイテイの問題を提起し、自分が自分であることの不確かさは、リア王のみにとどまらない問題を突きつける。
 台詞はたぶんに様式化されているので、概して文句も長くなく、また複雑でないので、字幕を追うのにも、劇を観るのにさほど支障にもならない。その字幕の台詞の中でも、この「私が私であることは、すごいことだ」という台詞は、心に強く残っている。
 演出・主演の呉興国は、妻であり太古踏舞団の演出家であった林秀偉(リン・シュー・ウエイ)とともに1986年に「当代伝奇劇場」を創立し、彼らが最初に取り組んだのが、蜷川幸雄の『NINAGAWA・マクベス』に触発されてシェイクスピアの『マクベス』を中国の戦国時代に設定して翻案した『欲望城国』(Kingdom of Desire)である。
 この作品の来日作品を観た蜷川幸雄が、呉興国本人に「次はリア王をやるべきだ」と言ったことが、今回この作品創造のきっかけになっているという。
 今回の見所は、呉興国の一人十役の演技もさることながら、京劇風の台詞回しも非常に興味深いものであった。観る劇であるとともに、聞く劇でもあった。
 『リア王』も『間違いの喜劇』(「まちがいの狂言」)も、自分探しの劇、アイデンテイテイ喪失の劇という共通項で眺められるというのも、新しい発見でもあった。

 

演出・主演/呉興国
8月21日(水)夜、国際交流基金フォーラム・赤坂


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