高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   笛田宇一郎事務所公演 『ハムレット/臨界点』            No. 2002_012

〜 二十一世紀演劇VOL..3 笛田宇一郎の演劇論を舞台で具体化して体現 〜

 「ああ、このあまりにも硬い肉体が崩れ溶けて露と消えてくれぬものか!」の台詞で、笛田宇一郎の 『ハムレット/臨界点』は始まる。だがそのあとに続く台詞は、途中から劇の順序も錯綜し、次第に『ハムレット』からも外れていく。ハムレットであり続けることの不可能性。
 臨界点とは、極限のバランス上にある状態で、その一線を越えると崩壊する。
 ハムレットの存在は、いうなればその臨界点の極限状況でのありよう、とも言える。
 そのバランスをかろうじて支えるのが、「私は、ハムレット...だった」という自己の仮面化による逃避、ハムレットであり続けることはできない。
 笛田宇一郎のハムレットは必然的にハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』とならざるを得ない。
 笛田は叫ぶ。
 「私はハムレットだった。浜辺に立ち、寄せては避ける波に向かってああだこうだと喋っていた...鐘の音が国葬を告げていた...高貴ななきがらを納めた柩の後から国会議員たちが分列行進する...人殺しは寡婦と交合(まぐわ)った、叔父さん、上に乗る手伝いをしてあげようか、ママ、股をひろげなよ」と『ハムレット・マシーン』の台詞が続く。
 そして、詩「夢の森」の「昨夜 夢でどこかの森を横切った」という森のモチーフが繰り返し語られる。
 笛田の舞台は、彼の演劇論の体現化に他ならない。
 彼は何よりも<身体性>を強調する。彼のいう身体性とは、舞台と観客席を含む劇場空間を、彼の肉体との距離感をなくした状態をいう。
 劇場空間が彼の肉体の延長にある状態を<身体性>と呼ぶ。
 笛田の演技は、例によって様式化された所作である。一挙一動が求道者のようなストイックな所作でもある。
 足の運び、手足の指の一本一本の動きが、言葉の台詞以上の重さをもって語りかけてくる。
 沈黙すらが、饒舌でもある。寡黙から饒舌になるとき、諧謔的表現が目立つようになる。「老婆が微笑んで食事をしながら脱糞する」というような尾籠な表現をあえて好んで口にする。
 この劇は、笛田の<二十一世紀演劇>と銘打ったシリーズの第三弾である。縁あってその1回目の『私は「リア王」』、第二弾の『グッバイ・二十世紀(マクベス)』と、この第三弾のすべて観る機会を得た。
 笛田の求めるところは、二十一世紀のありうべき演劇の可能性を探る試みである。
 舞台は、笛田と戸田裕大の二人だけで演じられる。笛田の演技が求心力なら、戸田の演技は遠心力の働きをする、と言えよう。戸田が凝固した姿勢を保持する演技力と体力は、相当のものである。
 演劇論という演劇の原液を飲ませるような舞台で、ある種の緊張感を伴う快感ともいうべき味わいがある作品である。


 
構成・演出/笛田宇一郎
4月18日(木)夜、お茶の水・FREE SPACE カンバス


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