高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   東京シェイクスピア・カンパニー公演 『ポーシャの庭』       No. 2001_026

〜 『ヴェニスの商人』 お伽話のそのあとで 〜

 開幕の暗闇から浮かび上がるのは、世に言う「人肉裁判」の法廷の場。
 シャイロックが、前方に片手を伸ばし、腰を後方に引いて前方の中空を見つめる姿勢で、ポーシャが扮する若き裁判官の判決を聞く瞬間。
 シャイロックの時間は停止し、不動の姿勢。ポーシャは財産没収の判決に続いて、シャイロックにユダヤ教からキリスト教への改宗を強要し、シャイロックの頭に被った丸い帽子を取りさる。そして、キリスト教徒としての洗礼名アウグストスの名を授ける。
 そこで場面は一転―今日はポーシャとバッサーニオの10年目の結婚記念日。それを記念して、ポーシャとバッサーニオの友人や仲間たちが久しぶりにポーシャの邸に集うことになっている。
 場所は、ポーシャの邸宅の庭。バッサーニオは、ポーシャのかつての侍女ネリッサの土産の玉子とトマトのバスケットを抱えて、ネリッサとともに登場。
 ネリッサの際限のないおしゃべりが続く。ネリッサの夫グラシアーノは、キリスト教徒への改宗後実業界の実力者となったシャイロックの援助でトマト栽培の事業に成功し、二人の間には6人の子供がいる。
 シャイロックの駆け落ちした娘ジェシカも今やロレンゾとの間に4人の子持ちの母親となって、この日のために手伝いに来ている。
 ロレンゾは、空想的社会主義者となって定職にもつかない。ポーシャが紹介した仕事も数日で辞めてしまって、家にも帰らない有様。
 ネリッサとジェシカの子宝に恵まれた境遇に対して、ポーシャとバッサーニオの間には未だに子供がない。
 それにポーシャにとっては、夫の<箱選び>、<法廷の場>からの以後、時間は停滞しているようである。
 ネリッサやジェシカが、子供をもうけて生活に追われる日々に対して、ポーシャには世間との関わり合いの時間がない。
 父親の財産と名声ゆえに働く必要もなく、実社会との直接的触れあいに欠けるポーシャとバッサーニオは、それぞれ実生活を求める。二人は互いに秘密にして、ポーシャは偽名を使って自動車教習所に通い、バッサーニオはロレンゾの替わりに小売店のセールスマンとして働きに出る。
 そこで突然の出来事。ポーシャがつわりの気配!ということで、出張に出たバッサーニオを急遽呼び戻すが、バッサーニオは、母親がポーシャの亡父ドン・ペドロの愛人であった娘マリアを伴って帰ってくる。
 場面はここで大きく転回をする。平穏な家庭生活から、波乱の嵐を招く急展開。
 マリアはバッサーニオになれなれしく媚び、ポーシャの邸でも傍若無人に振る舞う。
 ポーシャは心傷つき、それが原因で自動車教習の路上訓練で事故を起こす。ポーシャとバッサーニオはこれまでお互いが気を使い合って、本音を語ることがなかった。
 だが、この事故を契機にして、ポーシャは心のわだかまりをバッサーニオにぶつけることで、ふたりが本当は子供を望んでいたことを口に出すのを遠慮していたこと、そしてバッサーニオは、二人の間には子供が出来ないと言う事実も知っていたことも明らかになる。
 従ってポーシャのつわりと思われた症状も実は、慣れない自動車教習所での極度の緊張が引き起こした結果の吐き気であることを、バッサーニオは知っていたという事実の告白。マリアのことも、全く偶然出会ったことで、バッサーニオとの間にはなんのやましい関係はないことを告げる。
 この事故をきっかけに、ふたりの間に横たわる心のわだかまりは氷解し、今二人の間には新しい生活が拡がろうとする。
 ジェシカはロレンゾがアメリカに渡るのについていく決心をし、一番下の幼い子をポーシャとバッサーニオの二人に託すことになり、養子を望んでいた二人にとって、願ってもない贈り物となった。
 ネリッサの夫グラシアーノは、トマト栽培の事業に続いて、今またシャイロックの援助で新しい仕事にも成功する。
 相変わらずなのはアントーニオ。憂鬱の虫にふさがれて家から出ることもなく、ポーシャとバッサーニオの結婚10周年の記念パーテイにも欠席の挨拶状を出す。
 『ヴェニスの商人』の10年後は、かつて頭の冴えを見せたポーシャが、実生活という場で何をやってもドジをするのに対して、反社会的存在であったシャイロックが誰からも頼りにされる実業界の実力者という反転の世界を描き出すことで、新たな喜劇的世界を作り上げている。
 舞台での登場人物は、ポーシャ(牧野久美子)、ネリッサ(つかさまり)、ジェシカ(梅崎之梨子)、マリア(奈良谷優季)、バッサーニオ(井手泉)、シャイロック(中吉卓郎、俳優座客演)の6人である。
 中吉卓郎は、<法廷の場>の残酷無比のシャイロックから、影の実力者でありながらキリスト教徒としての穏やかな人物となったシャイロックを見事に演じ分けていた。
 牧野久美子のポーシャも、<法廷の場>でのダニエルの再来とまで言われた俊才ぶりが、実生活においてはトマト一つ育てることも出来ないお嬢様ぶりをうまく、可愛く演じ、自動車事故の後、バッサーニオに胸の内をぶちまけるときのヒステリックぶりは、迫真の演技であった。
 小さな舞台ではあったが見応えのある舞台だった。
 劇団のアンケート用紙の質問に、この舞台で「一番幸福なのは誰でしょうか?」というのがあり、僕は<?!>付きで「シャイロック」と答えた。
 反語的かも知れないが、人にとっての<幸福>とは心の持ちようで様々であろう。
 シャイロックは、親としては恵まれているとは言えない。ユダヤ教徒であったときのシャイロック娘のジェシカには駆け落ちされ、おまけに妻の形見の指輪まで猿一匹に変えられてしまう(この劇では、幸運にもその指輪の買い手が自分の友人の一人であったということで無事買い戻すことが出来た)。キリスト教徒に改宗後は、事業家としては成功者とはなるものの、ジェシカの夫は落ち着きがなく、結果的には二人はまた、自分の手元を離れてアメリカへと行くことになる。そんなシャイロックは子供運には恵まれているとはいえない。しかし、この舞台で感じるシャイロックは一番心が落ち着いている存在である。だから、僕はシャイロックが一番幸福だと答えた。
 だが、みなそれぞれに幸福を感じている、そんな舞台であった。

 

作・演出・製作総指揮/江戸馨、舞台美術/斧ヨーコ&チューダー猫
10月26日(金)19時開演、中野・劇場MONO、チケット:3500円


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