高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   『ブレスレス 1990 ゴミを呼吸する夜の物語』    No. 2001_021

〜 『リア王』 X 「オウム真理教」 = 「ゴミ社会問題」 〜

 タイトルから伺えるように、これは10年前の作品の再演である。正確には90年の東京初演と、翌々年にのべ国内10カ所のツアー公演以来、9年ぶりの再演ということである。
 今回、世田谷パブリックシアター提携でシアタートラムでの公演後、岐阜、滋賀、北九州市と国内ツアー公演の後、ドイツ、ポーランドなど欧州4カ所の海外公演が続く。
 坂手洋二の作品は、今年の2月、新国立劇場で『ピカドン・キジムナー』を観て衝撃的な感動を受けたのが初めての出会いである。作品自体としては『南洋くじら部隊』(せりふの時代・2001 冬号に掲載)の脚本を読んだことがある。
 『ブレスレス』についての内容については、チケットを予約した段階では全く知らなかったが、新聞情報では<当時の世相や事件にシェイクスピアの「リア王」の要素を組み合わせた90年という時代を批評的に描いた作品>として紹介されていた(9月7日朝日新聞夕刊・芸能欄)ので関心が高まった。
 観劇にあたっての予備知識はなかったが、作者坂手洋二と主演の柄本明や島田歌穂という名前に惹かれたのも確かだった。つまり、僕がこの劇を観るにあたっては、シェイクスピアに全く関係ない位置でとらえていた。
 舞台が開くと、一面黒いポリ袋のゴミの山。
 その中のゴミの一つに人間が入っていて、ゴミから生まれた赤ん坊を装う。
 リア王の台詞をもじって「人間この世に笑いながら生まれてくる」と言って、高らかな笑い声をあげて、ゴミ袋から頭をのぞかせる。
 このゴミ人間の正体は、失踪して行方不明の坂本(弁護士)であることが後になって分かる。
 もっとも本人は記憶喪失で、自分が誰であったのかが分からない。
 都会のビルの空き地に不法に捨てられているゴミ問題をパロデイにするかのように、ゴミ集め宗教のオカルトが展開する。
 ゴミ教祖(柄本明)であるパパは、リア王であり、オウム真理教の教祖麻原彰晃その人である。
 リア王に忠実な騎士ケントが従うように、パパにも忠実な、従僕にして崇拝者であるタドコロなる人物が従い、教祖のパパからその言葉をもらい受けてはパパの娘達に伝える。
 リア王には娘が3人いたが、パパには無限に娘がいる(舞台では6人だが、救いを必要とする者はすべて娘であり、新しい娘が常に末娘となるということで、無限の可能性を持っている)。
 パパが娘達からもらう贈り物はゴミでなければならない。
 娘達はリア王の姉娘達のように競ってゴミの贈り物をする。
 だが、末娘は空のポリ袋を渡す。
 ゴミという偽善の贈り物に絶えられないとパパに告白するが、パパの怒りは、リア王のコーデリアに対する怒りのコピーである。
 「ゴミ集め宗教」に娘を奪われた老年の夫婦が、娘を捜してその宗教の集会場所を探し求めるところは、当時のオウム真理教に対する世相を反映している。
 オウム真理教によるサリン事件は、この劇の上演の5年後であるが、当時においてはそんなことはおよそ想像も出来なかったであろうが、この劇は今観てみると実に予言的に見えてくる。
 坂本弁護士の失踪にしても、当時はただ<謎>でしかなく、疑いはあってもオウム真理教と強く結びつける確証はなかった。死んでいるのか生きているのかさえ分からなかった。この劇に出てくる坂本弁護士も、自分が生きているのか死んでいるのか計りかねている。
 90年代というのは20世紀最後の10年である。そのことの象徴的な場面としては、中学生の女の子が登場して、パパに向かって21世紀まで3千9百何日と言う台詞がある。
 すでに21世紀となった今では、その言葉は過去のものでしかないのだが、タイムカプセルにでも閉じられたようにリアルに響いてくるのが印象的であった。
 『リア王』ではリアをはじめその3人の娘も全員死んでしまうように、パパも娘達も全員死んでしまう。
 そして、全員が死んでしまった後に、パパが待ち望んでいた季節外れの雪が降ってくる。
 それはゴミと対極にある白く美しい景色であり、象徴的な感じを与える。
 このように『ブレスレス』は、都市のゴミ問題を表層にして、世相事件としての「オウム真理教」の宗教問題をからませて、その深層は『リア王』をパロデイ化しているといえるが、パロデイというには余りにも質量の高い、重量感ある作品である。
 ゴミ集めの教祖=パパの柄本明には、パロデイのリア王でない、『リア王』を演じさせてみたい気がする。
 どこかそこらあたりにいるホームレスのような、茫洋とした印象のリア王になるのではないだろうか。

 

作・演出/坂手洋二、美術/妹尾河童  
9月8日(土)、世田谷・シアタートラム


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