高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   RSC来日公演 『テンペスト』                   No. 2001_015

〜 新生『テンペスト』、映像が誘う音楽の魔術 〜

 舞台はシンプルだが、舞台背景を使って一面スクリーンの画面となり、平面が3次元的立体の世界となる。
 そして、無国籍の音楽によって舞台は4次元的世界を創造する。
  『テンペスト』は、海上の嵐の場面から始まる。
 雷鳴と稲妻、水夫たちの狂おしい叫びと喧噪、そして激しい波の音。
 ジェイムズ・マクドナルド演出の『テンペスト』は、そんなこれまでの『テンペスト』とは少し趣を異にする。
 舞台中央の背景に、小さく丸く、地球のような円の中に、波静かな海上の様子が映し出される。
 平穏で、何事も起こらないような、穏やかな海である。
 その円が突然拡散され、たちまち嵐の海に変容し、舞台は一面、そのままスクリーンの画面と化して、荒れ狂う海の姿となる。
 床舞台は全面白布で覆われ、布の揺れ動きが荒れる海の波を表す。
  映像と一体となって、その波が客席のこちら側まで押し寄せてくるような印象を与える。
 船のイメージは、その背景の舞台が2段構造となっていて、上段が船の甲板となり、ナポリの公爵一行と水夫たちは嵐の海に右往左往する。 その上段は床舞台と垂直でなく、スロープ状となっている。
船が難破して一行が海に投げ出されると、その上段のスロープを滑り落ちていき、あたかも海の藻屑と消えるかのようである。それが舞台平面まで落ちると舞台前面まできて、荒れ狂う波を表象した白布を全員でまくり上げ、それをもって一同退場していく。
  嵐の後、スクリーンは海に変わって、空を映し出す。
マクドナルドの『テンペスト』は、<光>と<映像>で新鮮な幕開けをするが、さらに決定的な特徴は<歌>と<音楽>である。
 シェイクスピアの台詞にはリズムがあるが、そのリズムを<光>と<音楽>というリズムで相乗効果を出しているのがこの舞台の特徴であった。
 歌=コーラスは、男3人、女3人の6人のメンバー=妖精で和唱される。
 この音楽はジャズ風でもあれば、ロック風でもあり、アフリカの民族音楽のようでもあり、東洋的な音楽でもある。要するに無国籍的音楽のリズムである。
  全体を通して感じるのは、この妖精たちによる音楽の印象の強さである。
 時には歌であり、時にはハミングだけのようでもある。
 プロスペローの魔法というより、この妖精たちが紡ぎ出す雰囲気の方がより魔法を感じさせる。
 この妖精たちは、空気の精であり、水の精であって、実体を備えない存在であるが、その歌=コーラスによって、濃密な存在感を示す。
 プロスペローが住む孤島に上陸したナポリの公爵アロンゾ―の一行が眠気を催すのも、それから目覚めるのもすべてこの妖精たちの音楽によってである。
 <この魔法の島は、音楽の島でもあるのだ。世界中の音楽を聴きまくって曲作りをし、音楽の重要性は、それによって物語が進行していくことにある。『テンペスト』にはマジック的要素があり、その魔法の要素を音楽で出すことに努めた>(注1)
 プロスペローを演じるフィリップ・ヴォスは、1997年の『ヴェニスの商人』のシャイロックの役があまりによかったために、それから18か月舞台から遠ざかって、もう二度と戻ってこないと思った、と語っている。しかし、世界の戯曲の中で最も偉大な役の一つであるプロスペローを演じるようにせがまれて、ツアーに参加することになったという。(注2)
 プロスペローといえばジョン・ギールグッドの名が頭に浮かぶが、フィリップ・ヴォスもギールグッドを意識したが、それはギールグッドから遠ざかることを努めるという意味においてであった。(注3)
そのヴォスのプロスペローの印象は骨太であった。
 『テンペスト』で最も興味のある登場人物の一つはキャリバンであるが、それを演じたズービン・ヴァーラは、突飛さはないが、未開で、野蛮で、粗野な感じがよく出ていた。
 魔法の島、音楽の島を彷徨し、彷彿たる気分に浸ることができた。

(注1、3)は観劇当日の、パーフォーマンス・トークから。
(注2)は日本語版『テンペスト』のプログラムを参照。



演出/ジェイムズ・マクドナルド
5月27日(日)13時開演、東京グローブ座、チケット:(S席)9500円、座席:1階B列20番

 

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