高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
  アカデミック・シェイクスピア・カンパニー第21回公演 『じゃじゃ馬馴らし』No. 2001_013

〜 軽妙洒脱なファース、思いっきりシェイクスピアを遊ぶ! 〜

 『じゃじゃ馬馴らし』は、キャタリーナが亭主の教育によって変貌するから<ファース>に近く、『から騒ぎ』は、ベネディックとベアトリスが本当の自分を見直すことによって変わっていくから<コメディ>である、とは小田島雄志の言葉である(『小田島雄志のシェイクスピア遊学』)。
 今から2年前、この劇団による菊地一浩と那智ゆかりのコンビで『から騒ぎ』を観たとき、スピード感にあふれたコメディを堪能したものだった。
 それで、この『じゃじゃ馬馴らし』もペトルーチオとキャタリーナに、菊地一浩と那智ゆかりの二人を自分勝手にキャステイングを決め込んでいたが、その通りであった。
 ファースとコメディの違いを自分流に解釈すると、コメディには悲劇的波乱万丈を含み、最後には結婚という大円団でおさまる、というシェイクスピア的な展開があるのに対して、ファースは波乱万丈の起伏がなく、軽妙な笑いの展開の<笑劇>であると言える。
 本編の『じゃじゃ馬馴らし』は鋳掛屋スライの夢から始まる劇中劇で、前段の鋳掛屋スライの寸劇は序幕としての前口上に過ぎないが、この劇の真理を暗示している。
 アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)では、この序幕の代わりにグレミオを演じる石山崇が、開演に先立つ「お願い」の口上の後、ギターを弾きながら理想の妻と夫の歌を歌う。
 歌を聴いていると、そんな男などいるわけない、そんな女なんかいるわけない、というような夢のような話の歌であるが、『じゃじゃ馬馴らし』も夢のような話である。
 ファースとしての、さわやかなとでもいうべき軽劇の笑いを誘うにふさわしい演出の一端は、キャストの二役の組み合わせの工夫にも表れていた。
 ルーセンショーの恋人ビアンカを演じる鈴木麻矢はペトルーチオの召使のグルーミオも演じ、ルーセンショー役の金子はいりは父親のヴィンセンショーも演じ、その役替わりに軽い笑いを誘った。
 姉のキャタリーナにいじめられるビアンカも、ただいじめられてばかりいるような妹ではなく、父親のバプティスタのいないところでは姉に口答えもすれば逆らいもするしたたかさを見せる。
 ルーセンショーの召使のトラーニオを演じる佐々木淑子は、得意の動物の物まねで、ペトルーチオの邸の庭を歩きまわる鶏に扮して楽しませてくれる。
 この劇の見せ場であるキャタリーナのじゃじゃ馬ぶり、ペトルーチオの彼女への求婚の台詞の丁々発止は、『から騒ぎ』で見せてくれた那智ゆかりと菊地一浩の二人の息の合ったやりとりが見ものであった。
 最後は、石山崇のプロローグの歌、「こんな女いればいいな」で締めくくられ、ファースとしての気軽で、なおかつ濃密な味を楽しませてもらった。

 

小田島雄志訳、綾乃木嵩之演出
5月19日(土)14時開演、銀座みゆき館劇場、チケット:3500円、座席:B列1番

 

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