高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
    ASC公演 『マクベス』          No. 2000_11

今回のアカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)公演『マクベス』には、二つの期待があった。
一つは、演出のキーワード“夫婦愛と子供”がどのように舞台化されるか、ということ。
今一つは、銀座みゆき館という非常に小さな空間を、動きの大きなASCが、その閉じられた空間でどのような演出をするかということであった。その答えは開演後間もなく出される。
百席足らずの観客席の2割近くを空席にし、出演者の控えの席として舞台そのもの化してしまうことで狭い舞台も劇場全体が舞台となり、演技の場が大きく広がる。
観客席に出演者が登場することは特に目新しい演出ではないが、閉じられた空間においては出演者と観客が一体となり、親密感と臨場感が高まるという効果があった。
キーワードの“夫婦愛と子供”を象徴するように、開演前の舞台には、舞台中央の前方にA4サイズほどの写真立てに、裸の赤ん坊の写真。その笑顔が『マクベス』の物語の残虐性と乖離する距離が大きいだけに象徴的である。
物語の進行は小田島訳にのせてシンプルなまでに忠実で、そこにキーワードの“夫婦愛と子供”というテーマを見出すのは困難であるが、彩乃木崇之の演出は観客に優しく、蛇足的にそのコンセプトを表出してくれる。
マクベスが倒され、最後にマルカムが王位について「なにはともあれ一同にその一人一人に感謝したい、スクーンでの戴冠式にはこぞって参加してもらいたい」と言ったところで幕になると思った。
ところが、先ほどマクダフに倒され、奈落から首だけ出してその死をさらしていたマクベスが、それまで閉じていた目をぎょろりと動かしてあたりを伺った後、奈落から立ち上がってくる。
そこへ赤ん坊を腕に抱いたマクベス夫人が寄ってきて、二人は仲睦まじく赤ん坊をあやし始める。
と、王位の席についたマルカムが二人の背後から、自分の頭の上の王冠をその赤ん坊の頭上にかぶせる。
ところが、その王冠は赤ん坊の頭から転げ落ちてしまって、マクベスの王位がその子供に継がれないことを比喩する。
陰惨で残虐な暗いイメージのマクベス夫妻だが、赤ん坊をあやす柔和な顔や姿は平和そのものである。
これまでの舞台での出来事はまるで関係がなかったかのように、穏やかな風景である。
もし、マクベス夫妻にこのように赤ん坊がいたなら、二人の愛は歪められたものとならず、ダンカン王殺害へと走らなかったのではないかと思わせる。
深い愛の結晶が子供であるとするなら、子供のいないマクベス夫妻の歪められた愛は権力欲となって代償化され、
その両極端の感情表現をマクベス夫人役の那智ゆかりが実にうまく演じる。
那智ゆかりは前回のASC公演『から騒ぎ』のベアトリス役で好演し、マクベス夫人には適役だという印象を持っていたので、彼女のマクベス夫人を見るのも楽しみであった。
その那智ゆかりとコンビを組んで『から騒ぎ』のベネディクト役を演じた菊地一浩がマクベスを演じる。この人の演技も大きくてなかなかいいと思うのだが、今回期待の場面、「明日、また明日、また明日と、時は小刻みな足どりで一日一日と歩み」の台詞が実によかった。
力強い演技といえば、バンクオー役の金子はいりもいい。猛将バンクオーというイメージであった。
演技派の佐々木淑子には門番を演じてもらいたいところであったが、ダンカン役もこの人ならではの持ち味があった。
鈴木麻矢が、マルカム、魔女3、門番と大活躍。門番の役では、言葉の掛詞でちょっぴりお遊びも入れて、可愛い門番であった。
今回の公演には、ASC演劇研究センターの本科生の初舞台が5、6名いて、舞台を賑やかにしていた。台詞のとちりも多少あったがそれも愛嬌であった。
昨年末、シェイクスピア・オンリー・ワンで彩乃木崇之が一人芝居で演じた『マクベス』の、マルカムの王位の後を狙う弟のドナルベインのようなひねり玉はないかわり、キーワードの“夫婦愛と子供”のコンセプトが、冒頭の赤ん坊の写真と終幕のマクベス夫妻の赤ん坊をあやす姿で表象された。

 

(訳/小田島雄志、演出/彩乃木崇之、5月27日(土)14時開演、
銀座みゆき館にて観劇、座席:F列3番)

 

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