高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
    演劇集団 円公演 『から騒ぎ』          No. 2000_09

ものがたりは、明治中頃の横浜、生糸の輸出で巨富を築いた高島家の磯子の別邸に、戦争に勝利を収めた陸軍大佐で連隊長の兵頭源一郎の一行が到着するところから始まる。
シェイクスピアの原作の舞台、場所をイタリアのメシーナから日本の横浜に、時代も明治に移した翻案劇であるが、翻案と感じさせないほど自然であった。
その自然さは、開幕の風景から通じる。
高島家の主人が使者の手紙を読みながら、舞台下手から登場してくるとき、一瞬、翻案劇であることを忘れさせるほど、原作に忠実な台詞である。
単に登場人物の名前を変え、場所を日本に移しただけのものではなく、赤毛モノ、翻訳モノ調を感じさせない自然さである。だから、我々はこの物語の中に日常性を超越して没入することが出来る。
この自然さは、たぶん、登場人物の出身地を多様にしてそのお国訛りをうまく生かしているところも一役買っているのであろう。
クローディオ役は、会津出身の士官若松蔵人、その親友であるベネディクト役は土佐出身の大口弁九郎。
警吏のドグベリー役は薩摩出身の鈍久里衛門。
登場人物の名前も、原作の音から取ったもの、あるいは性格的なものから拝借したりしている。
翻案劇として原作に忠実なところは、ちょっとしたところにも工夫がある。
高島家の一人娘ひろ(ヒーロー)の従姉妹、山下とり(ベアトリス)と大口弁を九郎(ベネディクト)を結び付けようと計らう連隊長の兵頭源一郎(ドン・ペドロ)と高島家の主人直人(レオナート)、および若松蔵人(クローディオ)の三人は、弁九郎の隠れている高島家の庭園で、とりがいかに弁九郎のことを恋い慕っているかを計略的に語り合うが、その三人が登場するに当たって、原作ではペドロに仕える歌手バルサザーが登場して、まず歌を歌うところから始まる。
この翻案劇では、バルサザーの代わりに芸者春子が登場して、三味線を弾きながら小唄を歌う。
このような細かい演出が、原作の持つ雰囲気を残しながら翻案としての自然さを保っているといえる。
シェイクスピア劇は、三木のり平の言葉を借りれば、「台詞の競り合い劇」であるが、なかでもこの『から騒ぎ』ほど、言葉の競り合い、せりふの競り合いの楽しいものはない。
その原作の持つせりふの競り合いを、翻訳で、あるいは翻案で生かすのはなかなか並大抵ではないと思うが、それも十二分に楽しませてくれた。
せりふの競り合いといえば、原作ではベアトリスとベネディクトの競り合いであるが、翻案では山下とりと大口弁九郎の競り合いとなる。
みものとしては、警吏ドグベリー(鈍久里衛門)とヴァージズ(尾花枯吉)と夜番たちのやりとり。
鈍久里衛門のお国ことばである薩摩訛りを使わせることで、トンチンカンな珍騒動を起こして効果的となっている。
全体として、非常に楽しく面白い劇であったというのが率直な感想である。そして、しみじみとした温かみを感じさせる劇でもあった。それは演出家安西徹雄のもつ心情から発するものでもあるだろう。

<しばらく遠ざかっていた後で、今もう一度シェイクスピアの世界に帰ってきてみると、そのあまりの面白さに、改めて目を見張るほかはなかった(8年ぶりにシェイクスピアを演出)。
シェイクスピアの人間に対する愛、この世に生きてあることの輝きに対する、揺らぐことのない歓びの感情。ただ単純な人間賛美でもなければ、安易な現実肯定でもない。
喜劇においてさえ、シェイクスピアは人間のうちに潜む悪の不条理と、人間の逃れようもない愚かしさや哀れさから、決して目をそらすことはない。しかし、そうしたものをすべて抱え込んだその上で、だからこそ、人間はいかにも愛すべきものではないか―シェイクスピアは、静かにそう語っているように思えた>(公演パンフレット:安西徹雄「シェイクスピアに帰る」より引用)

(翻案・演出/安西徹雄、4月23日(木)14時開演、紀伊國屋ホールにて観劇。
チケット:5000円、座席:B列11番)

 

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